カール・デーニッツ
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私は潔白であり、海軍、特にUボート艦隊のことを弁護してもらいたい」と依頼[36]した。

デーニッツは4つの起訴事項のうち、訴因第一「侵略戦争の共同謀議」、訴因第二「平和に対する罪」、訴因第三「戦争犯罪」の3つで起訴された。起訴状を届けられた際に感想を求められると「これらの訴因のどれも私には一切関係ない」と述べた[37]

デーニッツが検察から問われている罪状の中でも特に刑が重くなる可能性が高いものとして、ラコニア号撃沈事件を受けて1942年9月17日に出した一般命令[38]「難船者救助はその陳述がUボートにとって重要な場合に限る」は、沈没船の乗員・乗客を殺せと命じたに等しいというものがあった(ラコニア指令(英語版))。しかし弁護人クランツビューラーはアメリカ海軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督を引っ張りだすことに成功し、ニミッツ提督はクランツビューラー弁護人が作成した太平洋海戦に関する20問の質問書に答えて「対日戦の最初から、アメリカ軍の潜水艦は自艦や作戦が危険になる恐れがある場合は警告や沈没船の救出作業をしなかった」ことを証言した。ただしニュルンベルク裁判は『しっぺ返し理論』(連合軍も同じことをやっているという抗弁)を認めていなかったのでこれだけでは不十分だった。そこでクランツビューラー弁護人は「商船に抵抗を命令することによってロンドン潜水艦戦闘行為議定書[39]は、もはや商船には適用できなくなったということです。同様に全ての船に一般的警告がなされ、それとともに攻撃されるべき船への個々への警告が必要ではない、と公表された作戦地域におきましてもこの協定は適用されえません。」という議定書の解釈を行った。そして「私はアメリカ海軍当局が対日戦争で国際法に違反していたと証明したくない。」「アメリカ海軍当局は議定書の実質解釈においてドイツ海軍当局と同じだったのです」と結論した。これは効果てきめんでアメリカ判事フランシス・ビドルはアメリカの面子を守るためにクランツビューラー弁護人の見解に賛成した[40]

しかしイギリス検事デビッド・マクスウェル=ファイフからの反対尋問で造船所の人員増強に強制収容所の囚人1万2000人を求めたことを追及された。この件ではデーニッツが不利となった[41]

1946年10月1日、被告人全員に判決が言い渡された。被告人全員がそろった中で一人ずつ判決文が読み上げられた。デーニッツの判決文は「デーニッツはドイツUボートを建設して養成したが、証拠聴取の結果、彼は侵略戦争の謀議に通じておらず、これを準備し、開始した事実は出なかった。彼は純粋に軍事的な任務を果たした職業軍人だった。彼は侵略戦争計画が示された最も重要な相談に出席していなかった。彼がそこで下された決定を前もって知らされていたということに何の証拠もない」として、訴因第一につき無罪とした[42]。さらに「本法廷は武装したイギリス商船に対する潜水艦攻撃に対してデーニッツを有罪とするだけの証拠がそろっていない。生存者を殺害せよと命じたとされることについても有罪とは認められない」としたが、「デーニッツは視野に入った全ての物の撃沈をUボートに認める海域を設定した。これは海戦に関するロンドン宣言に反するものである。また無制限潜水艦戦に関する命令を海軍内に伝達した他、強制収容所囚人を造船所で働かせようとした」として訴因第二と訴因第三につき有罪とした。デーニッツはこの判決に怒りをあらわにした。自分が大西洋の一部を撃沈水域にしたことは事実だが、アメリカ海軍はもっと酷く全太平洋を撃沈水域としていたからである[43]

その後、個別に言い渡される量刑判決で彼は懲役10年の判決を受けた[44]。これは有罪判決を受けた被告たちの中で最も軽い判決だった。
シュパンダウ刑務所に服役ニュルンベルク裁判で禁固刑を受けた戦犯が服役したシュパンダウ刑務所。デーニッツは1947年から1956年まで服役した。同刑務所は連合国4カ国が月ごとに交替で看守を出し、イギリスは1月・5月・9月、フランスは2月・6月・10月、ソ連は3月・7月・11月、アメリカは4月・8月・12月を担当した[45]

デーニッツ含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、1947年7月18日DC-3機でベルリンへ移送され、護送車でシュパンダウ刑務所に送られてそこに投獄された。デーニッツの囚人番号は2番だった[45]

刑務所内ではノルマの労作業をこなしながら自由時間には読書をしていることが多かった。ショーペンハウアーの著作や鳥類学の神秘の本などをよく読んでいたという[46]。家族からの手紙が一月に一度しか許されないことに不満を述べていた[47]

1952年冬にはデーニッツとシーラッハとアメリカ人看守1名が刑務所中庭で雪合戦に興じ、三人とも厳しく罰せられる事件があった[48]

釈放の二ヶ月前に弁護士クランツビューラーとの接見が許された。デーニッツは西ドイツ国民が自分を有罪と考えているかと弁護士に尋ねたが、弁護士は「一握りの連中はそのようなことを考えているが、大多数の者は貴方の有罪は政治的なものだと考えている。多くのマスコミも貴方の記事を書こうとしているが、悪く書こうとしているのではない」と述べてデーニッツを安心させた[49]

1956年9月30日午前0時、デーニッツは10年の刑期を満了して釈放された。刑務所の門の前で張っている報道陣をかわすためにイギリス軍所有のリムジンがおとりで最初に出て報道陣を引きつけ、その後デーニッツの乗ったタクシーが刑務所を出た[50]

アルベルト・シュペーアによると、デーニッツはヒトラーの後継者になったことを激しく後悔し、シュパンダウ刑務所の出獄にあたって(自分をヒトラーに推薦したと信じていた)シュペーアに「お前のせいで私は11年を無駄にした。お前がいなければヒトラーは私を国家元首にしようなどという考えを決して起こさなかった。私の部下たちはみな連邦海軍で指揮権を復活した。だが私を見ろ。まるで犯罪者だ。私の軍歴が滅茶苦茶だ。」と捨て台詞を残したという。デーニッツの非難に対し、シュペーアは「あの戦争で数百万人の人間が殺された。さらに数百万人が強制収容所で殺された。ここにいる我らは皆政府の一部であった。しかし君がここで悩んでいるのは5000万人の死者のことではなく、君の10年間だ。君の刑務所での最期の言葉はこんなものなのか。『私の軍歴!』」と反論したという[46]
晩年

刑務所服役中からデーニッツの支持者は「デーニッツは不当に有罪判決を受けた」と訴える運動を行っていたが、釈放後のデーニッツもそうした運動に参加した。彼を「海軍元帥閣下」と呼びかける旧幕僚に囲まれている時が彼にとっては一番居心地が良かったという[51]。そして回想録『10年と20日間』を執筆した。タイトル通り自らが政治やイデオロギーは頭になかった従順な軍人であることを訴える著作であった[51]

また、デーニッツは釈放後も「自らが国家元首(ドイツ国大統領)の地位にある」と主張していたが、戦後30周年にあたる1975年5月8日に執筆した「政治的遺言」において「1974年にドイツ民主共和国(東ドイツ)が憲法改正ドイツ再統一の意思を放棄したことに伴い、ドイツ国継承国ドイツ連邦共和国(西ドイツ)のみになったことに鑑み、ドイツ国大統領の権限を連邦大統領に移譲する」旨を宣言し、ニュルンベルク裁判で弁護人を務めたオットー・クランツビューラー(ドイツ語版)弁護士に寄託した[52]

デーニッツの死後、遺言はクランツビューラーから当時の連邦大統領カール・カルステンスに送付されたが、西ドイツ政府は「法的関連性がない」として公表せず、2005年にフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙の報道によってその存在が明らかになった[53]

晩年は信仰に拠り所を求め、ハンブルク近郊にあるアウミューレ(ドイツ語版)の自宅で妻と暮らした[51]

1980年数回の入院の後に病気のため自宅で死去。89歳没。その死亡記事は全世界の新聞に配信された。デーニッツは自らの棺にドイツ連邦共和国の旗をかけて埋葬されたいと希望したが、西ドイツ政府は拒否した[51]


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