カール・デーニッツ
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ドイツは渋るヒトラーを海軍が説得した結果、1940年8月17日にイギリスの封鎖宣言に対してようやく対封鎖宣言を行った[注 3]。これにより無警告で商船を撃沈することが違法ではなくなったために、デーニッツの作戦への制約は一つ少なくなった。単独行動の商船が狙われたため、英軍は護送船団方式をとるようになった。これに対しデーニッツは敵の輸送船団を発見した1隻の潜水艦が近在の味方潜水艦を誘導して一時にこれを襲撃するという「群狼作戦」を考案した[9]

Uボートの建造もフランス占領後にはやや増加し、ビスケー湾から直接大西洋に出ることができた。しかし、ヒトラーからの要望でUボートの地中海派遣や北極海派遣が続き大西洋で作戦するUボートの数は限られた。1941年末のアメリカ参戦後、西海岸沿岸で活動できたのは6隻の大型の9型ボートだけであった。しかし、1940年以降はフランス占領の効果とUボート増産の効果がでて、1943年春に連合軍の護衛戦術が変更されるまで戦果は増え続けた。
海軍総司令官

1943年1月30日、レーダー元帥の後任として海軍総司令官に就任し、海軍元帥にも昇進する。後任の潜水艦隊司令長官にはフォン・フリーデブルク少将が就任した。

デーニッツはレーダーの辞任の理由となったヒトラーの大型艦の廃艦命令について、それを強硬に主張するヒトラーを1943年2月4日に「装備を含めて」Uボート関連の「ドック工員や水上艦艇」を陸軍に振り向けることを中止させ、翌日6日にテオドール・クランケ中将が「成功を約束する機会」で「大型艦を戦場に派遣する」との暫定的なヒトラーの許可を得る。2月26日ヒトラーに大型艦の廃艦命令を一部撤回させ、後に大型艦は生き残った。

大西洋では、英軍が逆探知装置を開発し、戦線に投入していた。デーニッツはUボート部隊に対して、現在地や燃料残量などの些細なことを、最大で1日に7回も報告を求めたが、英軍は短波方向探知機により無線を発信したUボートの位置を把握し、追跡・攻撃を行った。Uボートは長距離哨戒機駆逐艦からの被害が増え、さらに米護衛空母が参加すると、Uボートは攻撃する前に空から制圧され戦果は激減する反面Uボートの損害は大幅に増加したが、デーニッツは遅くまで英軍の逆探知能力に気づかず、Uボートの被害を拡大させた。撃墜した爆撃機から英軍の正確な電子兵器のシステムが判明すると、1943年5月に無線電波誘導による「狼群作戦」を終わらせたが、ノルマンディー上陸作戦以降はフランスの基地も失い、Uボート戦は壊滅的な苦境に陥った。

デーニッツも個人的に、1943年5月19日にUボート乗組員だった次男ペーターが戦死し、自らの作戦で自らの息子を失う悲劇にあう。また、1944年5月13日にはSボート乗組員だった長男クラウスが戦死する個人的な悲劇が続いた。

1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に、海軍創設時の協約である非政治的なドイツ海軍は全体的に無関係であった[注 4]。デーニッツ自身も、仮にヒトラーを除いても、戦争の根本原因の国と国の衝突する利害関係までがなくなるわけではない上に、もし連合軍へ無条件降伏すればイギリスの秘密命令「エクリプス」(ドイツ分割計画)が実行されるので、全力を傾け「ヨーロッパ要塞」を守り抜くことが賢明だと考えており、ヒトラーを除けば全て良くなるとは考えていなかった。

デーニッツは戦況について新型電動潜水艦(エレクトロ・ボート)の就役やヴァルター・ボートの開発に期待を持ち、それらが大量に戦線に登場すれば戦局は好転すると考えていた。デーニッツは1944年当時でもソ連と西欧諸国の同盟は不自然であり、英国の戦争理由はヒトラーの言うように「力の均衡のため」であると信じていた。「ソ連が中部ヨーロッパに進出すれば力の均衡はソ連側に大きくふれてしまうため、英国は平和交渉に応じる。そのためには、交渉のテーブルに着ける能力をもたねばならず、防戦を続けるべきである。」と主張していた。

デーニッツもアルデンヌ敗北後は、仮に新型電動Uボートやヴァルター機関のボートが就役したとしても、ドイツの敗北は避けられないと感じていた。しかし、戦争継続の態度は変わらなかった。その理由は、1944年の厳冬期に無条件降伏すれば国際法によりドイツ兵は現地で拘束され、そのためにソ連領内の数百万の生命が東部戦線やその奥地で失われる。それを防ぐために、春までは戦闘を継続するべきだと考えた。そして、春以降ドイツ本国のいくつかの都市が敵の手に落ちた後も、もし無条件降伏を行えば東部残留のドイツ人がソ連軍占領下のドイツ人同様に残虐行為にさらされるとして、さらに継戦を正しいとした。

追い詰められたドイツ軍指揮官たちは、部下将兵を生かす責任を放棄し、将兵を絶望的な状況に意図的に追い込んでいった。ドイツ軍将兵はそんな無責任な指揮官に武器が尽きるまで戦うことを求められ、待っているのは確実な死だけであった。デーニッツも例外ではなく、むしろ最もけたたましい叫びをあげた指揮官の1人であった。デーニッツは勝算もない戦いに将兵を駆り立て、ヒトラーに「狂信的な意志」を誇示するために、ヒステリックな要求を将兵に出し続けた[10]。この状況で、重要なのはただひとつ。戦い続けること、そしてあらゆる運命に逆らい、転機を引き寄せることだ。狂信的な意志は我々の心に火をつけるに違いない。
我々は周囲で何が起ころうと、動揺することなく軍務を遂行する。軍務によって勇敢で、毅然として、忠実な、敵の行く手を阻む一枚岩となることができる。
そのように行動できない者はろくでなしだ。そんな奴はプラカードをくくりつけて絞首刑に処さねばならない。
「ここにぶら下がっているのは裏切り者だ」と[11]

デーニッツは戦後になって「自分は兵士とドイツ国民の生存を気遣った責任ある軍指導者であった」と主張するようになったが、この激烈な訓示を行ったのは、ドイツが敗北するわずか数週間前の1945年4月7日のことであった[11]

デーニッツは、ノルマンディーの敗北後から終戦までの戦争末期二つの軍事行動を行っている。一つは、時代遅れとなった旧型Uボートの出撃を命じつづけた。その結果、戦果がほとんど見込めないにもかかわらず旧型Uボートの乗員の損失は続いた。デーニッツは、新型Uボート就役まで出撃を控えさせる処置をあえてとらない理由を「大西洋の敵航空機が本土や戦線へ振り向けられることを防止するために」と、「わずかでも戦略物資をアメリカからヨーロッパの戦場へ入れない」ためと説明している。もう一つは、1945年の1月から終戦まで難民や兵士をソ連の残虐行為から救うために、ソ連陸軍の包囲が開いている海上からデンマークや本国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン)へ輸送を開始したことである。
大統領としての指名から敗戦へ詳細は「アドルフ・ヒトラーの死」および「ドイツの降伏文書(英語版)」を参照総統地下壕でヒトラーと会見するデーニッツ。1945年。

1945年4月23日、ヘルマン・ゲーリング国家元帥は連合軍に単独で講和を申出て反逆者として官職を剥奪され、ハインリヒ・ヒムラーSS長官も4月28日にスウェーデン経由で講和を申出て反逆者となり表舞台から消えた。1945年4月25日に、デーニッツはベルリン防衛のために1万人以上の水兵をベルリンに派遣していた[12]。デーニッツは「ヒトラーの死で軍律[注 5]から解放されしだい」海軍は降伏させ、自らは司令部で地上軍として「玉砕」するとの決意を部下や娘婿のギュンター・ヘスラーに打ち明けていた。

だが、ヒトラーは遺書(英語版)の中で後継者をデーニッツに指命していたため、4月30日19時30分、ナチス党官房長マルティン・ボルマンより電報(第1号電報)が届いた[14]。そこには「総統は前国家元帥ゲーリングに代わって、海軍元帥閣下(デーニッツ)、貴方を後継者に指名した。」と書かれていた[14]。しかしその電報はヒトラーの死には触れていなかったため[14]、デーニッツはただちに「我が総統。貴方に対する私の忠誠は不変です。貴方をベルリンから救出するため私は引き続きあらゆる手段を試みます」と返信した。そして実際にデーニッツはすぐさま海軍兵士にヒトラー救出部隊を結成させ、ベルリンへ送り込んだ(この時に派遣された兵士のほとんどが戦死した)[15][16]

5月1日午前「遺書発効」とのボルマンからの第2号電報で、ヒトラーの死を知ったデーニッツはヒトラーの死を国民に公表した[17]。その内容は次のとおりであった。全ドイツ国民ならびにドイツ国防軍の全兵士諸君。我らが総統アドルフ・ヒトラーは亡くなった。きわめて深い悲しみと畏敬の念をもってドイツ国民は首を垂れる。彼は早くから共産主義の持つ恐るべき危険性を認識し、これと戦うことに全生涯を捧げた。彼のこの戦いの果てに、ゆるぎなくまっすぐな人生の果てにあったのは、ドイツ国首都での英雄的な死であった。彼の人生はドイツへの比類なき奉仕であった。怒涛のようなボルシェヴィキの侵攻に対し、彼の戦いはドイツを越えて全ヨーロッパに、文明世界全体に投入された。総統は私を後継者に指名した。私はその責任を悟り、この過酷な運命の時にあって、ドイツ国民の指導を引き継ぐものである[18]

同日、すでにヒトラーによって解任されていたヒムラーがデーニッツのもとに現れた[19]


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