カール・デーニッツ
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1912年に父が死去し、父に代わる偶像として上官ヴィルフリート・フォン・レーヴェンフェルト(ドイツ語版)海軍大尉を尊敬するようになった[1]。フォン・レーヴェンフェルト大尉は1912年にデーニッツを小型巡洋艦ブレスラウの士官候補生として配属した[1]

この艦に勤務中に第一次世界大戦を迎え、オスマン帝国を同盟国に誘うために地中海の港で停泊を続けていたが、潜水艦Uボートに関心を持つようになった[2]。1917年1月に潜水艦当直士官課程を終えるとヴァルター・フォルストマン大尉が艦長を務める潜水艦U39に勤務[3]。1918年にはUB-86の艦長となったが[4]、10月に艦が潜航中に航行不能となり、急浮上をしたところをイギリス軍に捕らわれて捕虜となる。Uボートの艦長は絞首刑になるという噂を聞き、発狂したふりをして1919年、本国送還となる。

大戦終了後もドイツ海軍に残ったが、ヴェルサイユ条約で潜水艦の開発や配備が禁止されていたため、デーニッツも水上艦艇の勤務となった[5]。その期間に日本を含む諸外国を遠洋航海で訪問しているが、アメリカに行けなかったことを後に後悔している[6]。水雷艇艇長、駆逐艦艦隊司令、北海方面海軍司令部参謀を歴任後、1934年に軽巡洋艦エムデンの艦長に就任する。1935年にヒトラーがドイツの再軍備を宣言、デーニッツは再建される潜水艦部隊の司令長官に任命された[7]
第二次世界大戦
潜水艦隊司令長官U-94の艦長ヘルベルト・クピッシュ大尉に騎士十字章を授与するため、サン=ナゼールを訪れたデーニッツ(1941年6月、従軍記者のブーフハイムが撮影)ナチ式敬礼を行うデーニッツ(後ろ向きの人物)。1941年。

デーニッツはドイツ海軍の潜水艦隊司令長官として、1936年1月1日以降のUボート作戦を指揮し、1943年1月30日以降は海軍総司令部(OKM)トップの海軍総司令官として、海軍全体の指揮をとる。しかし、大西洋の戦いが戦機を決すると考えたチャーチルとデーニッツに対してドイツ海軍総司令部は大陸的思考に定着し、デーニッツが総指揮官として指揮権を得た時にはすでに戦いの趨勢は決していた[8]

開戦の日、デーニッツは57隻のUボートを擁していた(大西洋に派遣できたのは26隻)。デーニッツは当初より300隻のUボートが最低でも必要(100隻が哨戒、100隻が戦場への往復、100隻が整備)と表明していたが、通商破壊に必要な数はおろか訓練用にも事欠く状態で、開戦時に「なんたることだ!また英国と戦争をせねばならんとは!」と現状を嘆いた。

英国との開戦後も状況は変わらなかった。月産29隻の供給では損害の補填しかできず、その上、エーリヒ・レーダー元帥の指揮下で水上艦艇の補助としてデーニッツは作戦を制約された。そのため、対英戦での通商破壊作戦に使用できるUボートの数はごく僅かに限られていた。しかも、開戦直後(1939年9月6日)よりUボートの磁気式信管の魚雷は早期爆発を頻発し[注 1]ノルウェー攻略ではデーニッツは数週間前からUボートに通商破壊戦を中止させ、全兵力の42隻をノルウェー沿岸の英艦隊の予想進撃路に配置しなければならなかった。しかし、同地の鉱物から発せられる強い地磁気で魚雷は誤作動を繰り返し、ほとんど成果をあげなかった。

この魚雷の不調は深刻で、U47の報告により海軍はより威力の劣る接触式の信管による起爆に1939年10月20日に変更させたが、今度は魚雷の深度調節機の欠陥が明らかになり、Uボートは現実的には駆逐艦への魚雷攻撃が不可能になった。この魚雷の欠陥と少なすぎる潜水艦の数から、緒戦の英軍の欧州からの水上艦艇の補助的な艦隊戦に関して、多くの戦果をみすみす逃す結果となった。魚雷の問題の技術的解決は1940年の夏までかかったが、開戦初期の戦果によりデーニッツは中将に昇進した[注 2]。詳細は「大西洋の戦い (第二次世界大戦)」を参照

ドイツは渋るヒトラーを海軍が説得した結果、1940年8月17日にイギリスの封鎖宣言に対してようやく対封鎖宣言を行った[注 3]。これにより無警告で商船を撃沈することが違法ではなくなったために、デーニッツの作戦への制約は一つ少なくなった。単独行動の商船が狙われたため、英軍は護送船団方式をとるようになった。これに対しデーニッツは敵の輸送船団を発見した1隻の潜水艦が近在の味方潜水艦を誘導して一時にこれを襲撃するという「群狼作戦」を考案した[9]

Uボートの建造もフランス占領後にはやや増加し、ビスケー湾から直接大西洋に出ることができた。しかし、ヒトラーからの要望でUボートの地中海派遣や北極海派遣が続き大西洋で作戦するUボートの数は限られた。1941年末のアメリカ参戦後、西海岸沿岸で活動できたのは6隻の大型の9型ボートだけであった。しかし、1940年以降はフランス占領の効果とUボート増産の効果がでて、1943年春に連合軍の護衛戦術が変更されるまで戦果は増え続けた。
海軍総司令官

1943年1月30日、レーダー元帥の後任として海軍総司令官に就任し、海軍元帥にも昇進する。後任の潜水艦隊司令長官にはフォン・フリーデブルク少将が就任した。

デーニッツはレーダーの辞任の理由となったヒトラーの大型艦の廃艦命令について、それを強硬に主張するヒトラーを1943年2月4日に「装備を含めて」Uボート関連の「ドック工員や水上艦艇」を陸軍に振り向けることを中止させ、翌日6日にテオドール・クランケ中将が「成功を約束する機会」で「大型艦を戦場に派遣する」との暫定的なヒトラーの許可を得る。2月26日ヒトラーに大型艦の廃艦命令を一部撤回させ、後に大型艦は生き残った。

大西洋では、英軍が逆探知装置を開発し、戦線に投入していた。デーニッツはUボート部隊に対して、現在地や燃料残量などの些細なことを、最大で1日に7回も報告を求めたが、英軍は短波方向探知機により無線を発信したUボートの位置を把握し、追跡・攻撃を行った。Uボートは長距離哨戒機駆逐艦からの被害が増え、さらに米護衛空母が参加すると、Uボートは攻撃する前に空から制圧され戦果は激減する反面Uボートの損害は大幅に増加したが、デーニッツは遅くまで英軍の逆探知能力に気づかず、Uボートの被害を拡大させた。撃墜した爆撃機から英軍の正確な電子兵器のシステムが判明すると、1943年5月に無線電波誘導による「狼群作戦」を終わらせたが、ノルマンディー上陸作戦以降はフランスの基地も失い、Uボート戦は壊滅的な苦境に陥った。

デーニッツも個人的に、1943年5月19日にUボート乗組員だった次男ペーターが戦死し、自らの作戦で自らの息子を失う悲劇にあう。また、1944年5月13日にはSボート乗組員だった長男クラウスが戦死する個人的な悲劇が続いた。

1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に、海軍創設時の協約である非政治的なドイツ海軍は全体的に無関係であった[注 4]。デーニッツ自身も、仮にヒトラーを除いても、戦争の根本原因の国と国の衝突する利害関係までがなくなるわけではない上に、もし連合軍へ無条件降伏すればイギリスの秘密命令「エクリプス」(ドイツ分割計画)が実行されるので、全力を傾け「ヨーロッパ要塞」を守り抜くことが賢明だと考えており、ヒトラーを除けば全て良くなるとは考えていなかった。

デーニッツは戦況について新型電動潜水艦(エレクトロ・ボート)の就役やヴァルター・ボートの開発に期待を持ち、それらが大量に戦線に登場すれば戦局は好転すると考えていた。デーニッツは1944年当時でもソ連と西欧諸国の同盟は不自然であり、英国の戦争理由はヒトラーの言うように「力の均衡のため」であると信じていた。「ソ連が中部ヨーロッパに進出すれば力の均衡はソ連側に大きくふれてしまうため、英国は平和交渉に応じる。そのためには、交渉のテーブルに着ける能力をもたねばならず、防戦を続けるべきである。」と主張していた。

デーニッツもアルデンヌ敗北後は、仮に新型電動Uボートやヴァルター機関のボートが就役したとしても、ドイツの敗北は避けられないと感じていた。しかし、戦争継続の態度は変わらなかった。その理由は、1944年の厳冬期に無条件降伏すれば国際法によりドイツ兵は現地で拘束され、そのためにソ連領内の数百万の生命が東部戦線やその奥地で失われる。それを防ぐために、春までは戦闘を継続するべきだと考えた。そして、春以降ドイツ本国のいくつかの都市が敵の手に落ちた後も、もし無条件降伏を行えば東部残留のドイツ人がソ連軍占領下のドイツ人同様に残虐行為にさらされるとして、さらに継戦を正しいとした。

追い詰められたドイツ軍指揮官たちは、部下将兵を生かす責任を放棄し、将兵を絶望的な状況に意図的に追い込んでいった。ドイツ軍将兵はそんな無責任な指揮官に武器が尽きるまで戦うことを求められ、待っているのは確実な死だけであった。デーニッツも例外ではなく、むしろ最もけたたましい叫びをあげた指揮官の1人であった。デーニッツは勝算もない戦いに将兵を駆り立て、ヒトラーに「狂信的な意志」を誇示するために、ヒステリックな要求を将兵に出し続けた[10]


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