カール・デーニッツ
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1945年1月から5月にデーニッツは200万人[注 6]の市民と兵を救出したが、その間、ソ連軍の攻撃で1万人以上の損害がバルト海などで発生した[注 7]。デーニッツは戦後、これらの救出を主導したかのように証言しているが、実際には1945年1月22日にヒトラーと会談したときには、石炭は軍事目的に使用するべきであり、避難民の移送に使うべきではないと進言している[29]。1945年5月の第一週だけで東部戦線に所在していた185万人のドイツ兵がソ連軍の捕虜になることを回避できた[30]
逮捕連合国に逮捕されるフレンスブルク政府の面々。先頭がデーニッツ大統領、後ろから歩いているのがヨードル上級大将とシュペーア軍需相

降伏後、2週間ほど西側連合軍はフレンスブルク政府を完全に無視した。この間、デーニッツ以下フレンスブルクの面々は無意味な「政府ごっこ」をしていなければならなかった。デーニッツは毎朝10時に「閣議」を開き、また、一党独裁の「民族主義国家」を維持しようと国民に向けて「複数政党制の狂気」を熱心に演説した。この時の状況について、閣僚の一人だったシュペーアは「我々は中身が空っぽの覚書を作り、うわべは活動的になることで我々の存在の無意味さに逆らおうとしていた。我々は最適の方法で自らを笑い物にしていた。あるいはすでに笑い物になっていた」と述べている[31]

5月23日になってついに西側連合国はフレンスブルク政府を解体した。デーニッツと彼の閣僚らは一か所に集められ、アイゼンハワーの代理人から「戦争犯罪裁判の被告人としてバート・モンドルフへ移送するので準備するように」と通告された。ヨードルはこれに動揺し、デーニッツに対して「海軍元帥閣下はさきほどの戦争犯罪の話をどう思われますか?我らはアイゼンハワー、モントゴメリー、ジューコフと同じく軍人としての務めを果たしただけではないのですか?」と聞いたが、デーニッツは苦笑いを浮かべながら「私の場合はね。ヒトラーが死んだのだからその後継者が代理を務めろということなのだろうな」と述べた[32]

その後、ゲーリングが収容されていたルクセンブルクのモンドルフのパレス・ホテルに送られ、8月中旬までそこで過ごした[33]。シュペーアの回顧録によればこの間、デーニッツとゲーリングは「被告人たちの中の首座」をめぐって争っていたという。ゲーリングとデーニッツはドアの前で会うのを避け、それぞれが二つのテーブルで座長として君臨したという[34]

8月中旬にニュルンベルク国際軍事裁判にかけるために他の被告人とともにニュルンベルク刑務所へと移された。
ニュルンベルク裁判ニュルンベルク裁判中。前席のゲーリングと話す後部席のデーニッツ。横で聞いている人物はヘス

ニュルンベルク刑務所に送られた後もデーニッツ、カイテル、ヨードルといった軍人組は冷静にふるまっていた。デーニッツは「ドイツ海軍総司令部法務官だったオットー・クランツビューラー(ドイツ語版)元上席法務官(Flottenrichter)に弁護を頼みたい。それが認められないならアメリカ海軍かイギリス海軍の潜水艦の艦長に弁護を頼みたい。彼らは私が誇り高く戦ったことを知っているはずだ」と述べた[35]。結局は1936年のU18沈没以来の旧知の間柄のクランツビューラー元上席法務官がデーニッツの専属弁護人に就くことになった。デーニッツは「私個人の弁護ではない。私は潔白であり、海軍、特にUボート艦隊のことを弁護してもらいたい」と依頼[36]した。

デーニッツは4つの起訴事項のうち、訴因第一「侵略戦争の共同謀議」、訴因第二「平和に対する罪」、訴因第三「戦争犯罪」の3つで起訴された。起訴状を届けられた際に感想を求められると「これらの訴因のどれも私には一切関係ない」と述べた[37]

デーニッツが検察から問われている罪状の中でも特に刑が重くなる可能性が高いものとして、ラコニア号撃沈事件を受けて1942年9月17日に出した一般命令[38]「難船者救助はその陳述がUボートにとって重要な場合に限る」は、沈没船の乗員・乗客を殺せと命じたに等しいというものがあった(ラコニア指令(英語版))。しかし弁護人クランツビューラーはアメリカ海軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督を引っ張りだすことに成功し、ニミッツ提督はクランツビューラー弁護人が作成した太平洋海戦に関する20問の質問書に答えて「対日戦の最初から、アメリカ軍の潜水艦は自艦や作戦が危険になる恐れがある場合は警告や沈没船の救出作業をしなかった」ことを証言した。ただしニュルンベルク裁判は『しっぺ返し理論』(連合軍も同じことをやっているという抗弁)を認めていなかったのでこれだけでは不十分だった。そこでクランツビューラー弁護人は「商船に抵抗を命令することによってロンドン潜水艦戦闘行為議定書[39]は、もはや商船には適用できなくなったということです。同様に全ての船に一般的警告がなされ、それとともに攻撃されるべき船への個々への警告が必要ではない、と公表された作戦地域におきましてもこの協定は適用されえません。」という議定書の解釈を行った。そして「私はアメリカ海軍当局が対日戦争で国際法に違反していたと証明したくない。」「アメリカ海軍当局は議定書の実質解釈においてドイツ海軍当局と同じだったのです」と結論した。これは効果てきめんでアメリカ判事フランシス・ビドルはアメリカの面子を守るためにクランツビューラー弁護人の見解に賛成した[40]

しかしイギリス検事デビッド・マクスウェル=ファイフからの反対尋問で造船所の人員増強に強制収容所の囚人1万2000人を求めたことを追及された。この件ではデーニッツが不利となった[41]

1946年10月1日、被告人全員に判決が言い渡された。被告人全員がそろった中で一人ずつ判決文が読み上げられた。デーニッツの判決文は「デーニッツはドイツUボートを建設して養成したが、証拠聴取の結果、彼は侵略戦争の謀議に通じておらず、これを準備し、開始した事実は出なかった。彼は純粋に軍事的な任務を果たした職業軍人だった。彼は侵略戦争計画が示された最も重要な相談に出席していなかった。彼がそこで下された決定を前もって知らされていたということに何の証拠もない」として、訴因第一につき無罪とした[42]。さらに「本法廷は武装したイギリス商船に対する潜水艦攻撃に対してデーニッツを有罪とするだけの証拠がそろっていない。生存者を殺害せよと命じたとされることについても有罪とは認められない」としたが、「デーニッツは視野に入った全ての物の撃沈をUボートに認める海域を設定した。これは海戦に関するロンドン宣言に反するものである。また無制限潜水艦戦に関する命令を海軍内に伝達した他、強制収容所囚人を造船所で働かせようとした」として訴因第二と訴因第三につき有罪とした。デーニッツはこの判決に怒りをあらわにした。自分が大西洋の一部を撃沈水域にしたことは事実だが、アメリカ海軍はもっと酷く全太平洋を撃沈水域としていたからである[43]

その後、個別に言い渡される量刑判決で彼は懲役10年の判決を受けた[44]。これは有罪判決を受けた被告たちの中で最も軽い判決だった。
シュパンダウ刑務所に服役ニュルンベルク裁判で禁固刑を受けた戦犯が服役したシュパンダウ刑務所。デーニッツは1947年から1956年まで服役した。同刑務所は連合国4カ国が月ごとに交替で看守を出し、イギリスは1月・5月・9月、フランスは2月・6月・10月、ソ連は3月・7月・11月、アメリカは4月・8月・12月を担当した[45]

デーニッツ含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、1947年7月18日DC-3機でベルリンへ移送され、護送車でシュパンダウ刑務所に送られてそこに投獄された。デーニッツの囚人番号は2番だった[45]

刑務所内ではノルマの労作業をこなしながら自由時間には読書をしていることが多かった。ショーペンハウアーの著作や鳥類学の神秘の本などをよく読んでいたという[46]。家族からの手紙が一月に一度しか許されないことに不満を述べていた[47]

1952年冬にはデーニッツとシーラッハとアメリカ人看守1名が刑務所中庭で雪合戦に興じ、三人とも厳しく罰せられる事件があった[48]

釈放の二ヶ月前に弁護士クランツビューラーとの接見が許された。デーニッツは西ドイツ国民が自分を有罪と考えているかと弁護士に尋ねたが、弁護士は「一握りの連中はそのようなことを考えているが、大多数の者は貴方の有罪は政治的なものだと考えている。


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