カール・デーニッツ
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デーニッツは勝算もない戦いに将兵を駆り立て、ヒトラーに「狂信的な意志」を誇示するために、ヒステリックな要求を将兵に出し続けた[10]。この状況で、重要なのはただひとつ。戦い続けること、そしてあらゆる運命に逆らい、転機を引き寄せることだ。狂信的な意志は我々の心に火をつけるに違いない。
我々は周囲で何が起ころうと、動揺することなく軍務を遂行する。軍務によって勇敢で、毅然として、忠実な、敵の行く手を阻む一枚岩となることができる。
そのように行動できない者はろくでなしだ。そんな奴はプラカードをくくりつけて絞首刑に処さねばならない。
「ここにぶら下がっているのは裏切り者だ」と[11]

デーニッツは戦後になって「自分は兵士とドイツ国民の生存を気遣った責任ある軍指導者であった」と主張するようになったが、この激烈な訓示を行ったのは、ドイツが敗北するわずか数週間前の1945年4月7日のことであった[11]

デーニッツは、ノルマンディーの敗北後から終戦までの戦争末期二つの軍事行動を行っている。一つは、時代遅れとなった旧型Uボートの出撃を命じつづけた。その結果、戦果がほとんど見込めないにもかかわらず旧型Uボートの乗員の損失は続いた。デーニッツは、新型Uボート就役まで出撃を控えさせる処置をあえてとらない理由を「大西洋の敵航空機が本土や戦線へ振り向けられることを防止するために」と、「わずかでも戦略物資をアメリカからヨーロッパの戦場へ入れない」ためと説明している。もう一つは、1945年の1月から終戦まで難民や兵士をソ連の残虐行為から救うために、ソ連陸軍の包囲が開いている海上からデンマークや本国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン)へ輸送を開始したことである。
大統領としての指名から敗戦へ詳細は「アドルフ・ヒトラーの死」および「ドイツの降伏文書(英語版)」を参照総統地下壕でヒトラーと会見するデーニッツ。1945年。

1945年4月23日、ヘルマン・ゲーリング国家元帥は連合軍に単独で講和を申出て反逆者として官職を剥奪され、ハインリヒ・ヒムラーSS長官も4月28日にスウェーデン経由で講和を申出て反逆者となり表舞台から消えた。1945年4月25日に、デーニッツはベルリン防衛のために1万人以上の水兵をベルリンに派遣していた[12]。デーニッツは「ヒトラーの死で軍律[注 5]から解放されしだい」海軍は降伏させ、自らは司令部で地上軍として「玉砕」するとの決意を部下や娘婿のギュンター・ヘスラーに打ち明けていた。

だが、ヒトラーは遺書(英語版)の中で後継者をデーニッツに指命していたため、4月30日19時30分、ナチス党官房長マルティン・ボルマンより電報(第1号電報)が届いた[14]。そこには「総統は前国家元帥ゲーリングに代わって、海軍元帥閣下(デーニッツ)、貴方を後継者に指名した。」と書かれていた[14]。しかしその電報はヒトラーの死には触れていなかったため[14]、デーニッツはただちに「我が総統。貴方に対する私の忠誠は不変です。貴方をベルリンから救出するため私は引き続きあらゆる手段を試みます」と返信した。そして実際にデーニッツはすぐさま海軍兵士にヒトラー救出部隊を結成させ、ベルリンへ送り込んだ(この時に派遣された兵士のほとんどが戦死した)[15][16]

5月1日午前「遺書発効」とのボルマンからの第2号電報で、ヒトラーの死を知ったデーニッツはヒトラーの死を国民に公表した[17]。その内容は次のとおりであった。全ドイツ国民ならびにドイツ国防軍の全兵士諸君。我らが総統アドルフ・ヒトラーは亡くなった。きわめて深い悲しみと畏敬の念をもってドイツ国民は首を垂れる。彼は早くから共産主義の持つ恐るべき危険性を認識し、これと戦うことに全生涯を捧げた。彼のこの戦いの果てに、ゆるぎなくまっすぐな人生の果てにあったのは、ドイツ国首都での英雄的な死であった。彼の人生はドイツへの比類なき奉仕であった。怒涛のようなボルシェヴィキの侵攻に対し、彼の戦いはドイツを越えて全ヨーロッパに、文明世界全体に投入された。総統は私を後継者に指名した。私はその責任を悟り、この過酷な運命の時にあって、ドイツ国民の指導を引き継ぐものである[18]

同日、すでにヒトラーによって解任されていたヒムラーがデーニッツのもとに現れた[19]。デーニッツはヒムラーを警戒し、拳銃を書類の束の下に隠し、ヒムラーと面会した[19]。ヒムラーはデーニッツからヒムラーの解任を告げるボルマンの電報を見せられたが、それに構わずデーニッツに祝辞を述べるとともに「私がナンバーツーとして貴方を支えたい」と申し出てきた[19]。デーニッツはこれを断っているが、親衛隊・警察勢力の離反を恐れてひとまず彼を政府に留め置いている[19]。しかし、連合国から「ホロコーストの執行者」「強制収容所の支配者」として悪名高かったヒムラーは、降伏処理のために設立された臨時政府であるフレンスブルク政府にとっては邪魔な存在であり、5月6日になってから「もう会うつもりはない」と通達して放逐した[20]。詳細は「フレンスブルク政府」を参照

5月1日午後、ゲッベルスとボルマンが共同署名した第3号電報がデーニッツのもとに届き、そこには「昨日15時30分に総統戦死。4月29日付けの遺書には、貴殿(デーニッツ)を大統領に、ゲッベルスを首相に、ボルマンをナチ党大臣に、アルトゥル・ザイス=インクヴァルトを外相に」指名する(ヒトラーの遺書による内閣)とあった[21]。デーニッツはゲッベルス、ボルマン等を含む人事が今後の降伏交渉の重荷になると考え、ゲッベルスとボルマンが姿を現したら即逮捕するよう命令した[21]

そこでデーニッツは財務相のルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクを筆頭閣僚(leitenden Reichsminister、首相代行)兼外相に任命し、組閣を依頼した[22]。なお、同日連合軍の地上部隊がせまって来たため、5月2日朝に総司令部をフレンスブルクに移した[23]

デーニッツは苦慮の後、ドイツ全土が軍事占領されての「自然的終戦」ではなく「公式降伏」が必要と判断した。ソ連占領地区での投降した軍民への容認できない残虐行為が報告されており、そのため、西方での部分降伏を行い、東部では戦争を継続し難民輸送と兵員の撤退をさらに継続するのが主要な目的であった[24]。また「降伏は軍隊がするので、国家がするわけではない。条約上の降伏は、弱体化しても国家主権を維持できる可能性がある」とのクロージク首相代行の上申を容れた結果でもあった。

5月5日、英軍のモントゴメリー元帥との間で北ドイツの部分降伏を発効させることに成功した。また、ボルマンとゲッベルスに対抗するために終戦処理政府を立ち上げ、連合軍に対して自らをドイツの正式代表として示した(ただし連合軍はこの表示に曖昧な態度で臨んだ)。

5月6日にはヨードルに全権を与えて米軍のアイゼンハワーの元に、西部戦線での無条件降伏を申し込んだ[25]。ところが、アイゼンハワーは5月7日までにソ連軍を含めて無条件降伏を行わなければ、既に降伏している北部地区を爆撃すると通告した[26]。これに対して、ヨードルはようやく発効を5月9日とすることに成功したのみであった[26]。デーニッツは、この結果を踏まえ海上輸送に全艦艇を投入して続行することを命じた。このドイツ海軍最後の作戦は潜水艦をはじめ全ての使用可能な艦艇で行われ公式には9日まで、実際には終戦後1週間程度は継続された。1945年1月から5月にデーニッツは200万人[注 6]の市民と兵を救出したが、その間、ソ連軍の攻撃で1万人以上の損害がバルト海などで発生した[注 7]


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