ツァイスはさらにシュライデンの助言を受けて顕微鏡を改良し1850年代以降には顕微鏡の品質で一般から広く認められるようになる。チューリンゲン一般工業博覧会で1857年に銀賞[3]、1861年には金賞を獲得[3]。1866年には通算生産台数1,000台を数えた[4]。
しかし工業博覧会などでの成功にもかかわらず、ツァイスは製品に満足していなかった[3]。学問の発展に伴い研究用機器への要求はますます高度になりつつあり、改良の糸口を数学的計算に基づく設計に求め、自力で公式を立てようと試みたが、ツァイスに数学の知識がなく、すでに高齢であったこともあり、思うような結果は得られなかった[3]。さらなる発展は望むには専門的に光学を勉強したブレーンが会社に必要と判断し、以前師匠のカール・ケルナーと働いていた数学者バアルフウスに助言を求めたが、この試みは無駄になった[3]。1866年[3]にイェーナ大学の講師エルンスト・アッベ[3]と学術実験用の機器製作を通じて知り合い、助言を求め、アッベも実際の検証が伴わない理論など神学に毛の生えたようなものでどうしても高度な実験機材が必要だと考えていた。ここで両者は一致したが、アッベは機械や簡単な望遠鏡には数学を応用することは可能でも顕微鏡への応用はあまりに複雑で難しいと考えており、ツァイスに釘を刺した上で数学的な計算には応じる旨同意[3]、共同で光学機器の性能向上技術を開発するようになった。当初は経験に公式を当てはめたような状態であったが1872年にはアッベの計算に基づいて設計された顕微鏡が出荷され、高く評価された[4]。業績は著しく向上し、1875年にツァイスはアッベに共同経営に参画するよう働きかけ、1876年にアッベは共同経営者として参加した[3]。この頃の従業員数は50人程になっていた[4]。
次に障害になったのは光学ガラスの素材であったが、1879年から[3]フリードリッヒ・オットー・ショットがガラス工学技術を提供することとなり、良質のガラスをレンズの材料とすることによって世界最高水準の光学機器会社としてさらに発展することとなった[5]。
高い評価を聞きつけて優秀な人材が集まるようになり、例えば1886年にはすでに高名な数学者だったパウル・ルドルフを迎えている[3]。 アッベはことあるごとにツァイスに対し工場経営の抜本的改革を申し入れていた[4]が、実現しないままカール・フリードリヒ・ツァイスは死去した。アッベは自らが所有する会社の株はもとより、カール・ツァイスの息子で共同経営者だったローデリヒ・ツァイス(Roderich Zeiss )にも迫って株の譲渡を受け、1891年6月30日すべての株を財団所有とした。これによってカール・ツァイス社にはひとりの株主もいなくなり、財団によって運営される希有の企業形態となった[6]。アッベにより定められた財団の定款は財団の使命として次の項目を謳っている。 また企業戦略は次の原則に基づいて決定されるとした。 財団は、当時1日14時間労働から12時間労働に短縮するかどうかを議論していたドイツ産業界の労働慣行から見れば過激な9時間労働制[4]、年次有給休暇[4]、年金制度[4]などの概念を導入、世界に先駆けて整備し、労働者の待遇改善に努めた。アッベは光学器械製造業者の大会で9時間労働制と時間外労働手当や休日出勤手当の法制化を主張したが、これは激しい反対に遭いまた軍国主義的なプロイセン政府からも法案の採用を拒否されている[4]。 1900年4月1日には念願通り8時間労働制を実現し、現在の労働時間の先鞭を付けた[4]。 1919年にはフリードリッヒ・オットー・ショットも自己持ち分をカール・ツァイス財団に提供し、カール・ツァイス財団はカール・ツァイス社とショット社の単独所有者となった[4]。 また技術的に価値の高い新規の発明については特許を取ることを禁じ、進んで公開するものとした[注釈 1]。他社が経営上の理由から二の足を踏む分野に対しても財団傘下の企業が積極的な技術開発を行い得たのは上記のような財団の経営方針によるものである。 このような労働政策や企業理念がグループの労働者の労働意欲を大いに向上し生産性を飛躍的に高め、結果として19世紀末から軍事や医学その他の専門分野で世界中どこへ行っても最高の性能を備えた製品として使われた。これにより世代によってはカール・ツァイスの名に絶対的権威の象徴としての伝説的な響きを感じる人も多い[5]。 1923年8月カール・ツァイスの技師ヴァルター・バウアースフェルト(Walther Bauersfeld )は世界初の近代的プラネタリウム「ツァイス1型」を製造した。このプラネタリウムは1923年10月21日にドイツ博物館にて公開され、現在も展示されている。 ツァイス財団の「人類の福祉に貢献する」という社是は、ナチスが台頭してくると「マルクス主義的」と見なされ、経営に容喙される原因になったといわれている。 財団傘下の企業は以下をはじめとして数多い。 20世紀初頭から第二次世界大戦までの期間、カール・ツァイスは世界の最先端を走る光学機器会社として君臨した。しかし、第二次世界大戦におけるドイツ敗戦の影響は、カール・ツァイスにおいても多大な影響を及ぼした。 第二次世界大戦の敗戦直後、ドイツの東西分断により、ドイツ東部にあったイェーナはソ連占領統治下に置かれた。
財団の誕生
応用指向の研究を基本姿勢として、光学、ガラス技術、精密機械技術および電子工学の分野で高品質の製品を開発・製造する。
全従業員に対して長期的に社会的責務を果たす。
財団外においても、重要な科学技術分野の発展に資する。
公共的な使命の達成に協力する。
学術、技術および市場は三位一体となって発展する。
学術、技術および経済は人間に奉仕するものであって、この逆ではない。
企業は、従業員との特別な連携のもとに存在する。
決定過程への参加によって従業員の創造性が高揚される。
カール・ツァイス - 天体望遠鏡や顕微鏡、眼鏡、光学照準器、写真レンズなどを製造。
ツァイス・イコン - ドイツの主要なカメラメーカーの大同団結的合併により誕生したカメラメーカーで、カール・ツァイス財団の傘下でイコンタ、イコフレックス、コンタックス、コンタレックス等のカメラを開発製造した。
ショット - 光学ガラス、医療・理化学用ガラス、その他特殊ガラス材料、およびそれらを用いた製品の開発、製造、販売。
東西分断東ドイツ側の人民公社カール・ツァイス・イェーナ(1978年)