カール・ツァイス
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アッベはことあるごとにツァイスに対し工場経営の抜本的改革を申し入れていた[4]が、実現しないままカール・フリードリヒ・ツァイスは死去した。アッベは自らが所有する会社の株はもとより、カール・ツァイスの息子で共同経営者だったローデリヒ・ツァイス(Roderich Zeiss )にも迫って株の譲渡を受け、1891年6月30日すべての株を財団所有とした。これによってカール・ツァイス社にはひとりの株主もいなくなり、財団によって運営される希有の企業形態となった[6]。アッベにより定められた財団の定款は財団の使命として次の項目を謳っている。
応用指向の研究を基本姿勢として、光学、ガラス技術、精密機械技術および電子工学の分野で高品質の製品を開発・製造する。

全従業員に対して長期的に社会的責務を果たす。

財団外においても、重要な科学技術分野の発展に資する。

公共的な使命の達成に協力する。

また企業戦略は次の原則に基づいて決定されるとした。
学術技術および市場は三位一体となって発展する。

学術、技術および経済は人間に奉仕するものであって、この逆ではない。

企業は、従業員との特別な連携のもとに存在する。

決定過程への参加によって従業員の創造性が高揚される。

財団は、当時1日14時間労働から12時間労働に短縮するかどうかを議論していたドイツ産業界の労働慣行から見れば過激な9時間労働制[4]年次有給休暇[4]年金制度[4]などの概念を導入、世界に先駆けて整備し、労働者の待遇改善に努めた。アッベは光学器械製造業者の大会で9時間労働制と時間外労働手当や休日出勤手当の法制化を主張したが、これは激しい反対に遭いまた軍国主義的なプロイセン政府からも法案の採用を拒否されている[4]

1900年4月1日には念願通り8時間労働制を実現し、現在の労働時間の先鞭を付けた[4]

1919年にはフリードリッヒ・オットー・ショットも自己持ち分をカール・ツァイス財団に提供し、カール・ツァイス財団はカール・ツァイス社とショット社の単独所有者となった[4]

また技術的に価値の高い新規の発明については特許を取ることを禁じ、進んで公開するものとした[注釈 1]。他社が経営上の理由から二の足を踏む分野に対しても財団傘下の企業が積極的な技術開発を行い得たのは上記のような財団の経営方針によるものである。

このような労働政策や企業理念がグループの労働者の労働意欲を大いに向上し生産性を飛躍的に高め、結果として19世紀末から軍事医学その他の専門分野で世界中どこへ行っても最高の性能を備えた製品として使われた。これにより世代によってはカール・ツァイスの名に絶対的権威の象徴としての伝説的な響きを感じる人も多い[5]

1923年8月カール・ツァイスの技師ヴァルター・バウアースフェルト(Walther Bauersfeld )は世界初の近代的プラネタリウム「ツァイス1型」を製造した。このプラネタリウムは1923年10月21日ドイツ博物館にて公開され、現在も展示されている。

ツァイス財団の「人類の福祉に貢献する」という社是は、ナチスが台頭してくると「マルクス主義的」と見なされ、経営に容喙される原因になったといわれている。

財団傘下の企業は以下をはじめとして数多い。

カール・ツァイス - 天体望遠鏡や顕微鏡、眼鏡、光学照準器、写真レンズなどを製造。

ツァイス・イコン - ドイツの主要なカメラメーカーの大同団結的合併により誕生したカメラメーカーで、カール・ツァイス財団の傘下でイコンタイコフレックスコンタックスコンタレックス等のカメラを開発製造した。

ショット - 光学ガラス、医療・理化学用ガラス、その他特殊ガラス材料、およびそれらを用いた製品の開発、製造、販売。

東西分断東ドイツ側の人民公社カール・ツァイス・イェーナ(1978年

20世紀初頭から第二次世界大戦までの期間、カール・ツァイスは世界の最先端を走る光学機器会社として君臨した。しかし、第二次世界大戦におけるドイツ敗戦の影響は、カール・ツァイスにおいても多大な影響を及ぼした。

第二次世界大戦の敗戦直後、ドイツの東西分断により、ドイツ東部にあったイェーナソ連占領統治下に置かれた。しかしアメリカ軍はカール・ツァイスの光学技術をソ連にそのまま渡すことを阻止するためソ連軍に先んじてイェーナに入り、1945年6月24日に125名の技術者とその家族を拉致、また8万枚の図面とともにイェーナを出発、オーバーコッヘンに移動させ、ツァイス・オプトン(Zeiss Opton)として光学機器の生産を引き継いだ[7]。一方ソ連軍はイェーナの工場群を接収、残った技術者もソ連に送った。これによってカール・ツァイスは東西に分裂した。東側はイェーナに半官半民の「人民公社カール・ツァイス・イェーナ」(Carl Zeiss Jena)を設立、このイェーナのカール・ツァイスは東ドイツの誇る光学機器メーカーとして存続した。その後1970年代になると東西のカール・ツァイスはどちらも有名な一流企業に復活し世界市場で競合するようになり、どちらも戦前からの商標を使用していたため競合が生じ、ロンドン国際司法裁判所に本拠地がどちらなのか判決を求め、1971年4月26日に「カール・ツァイス財団の本拠地はイエーナである」旨が確認された[8]。また東ドイツのカール・ツァイスの提案[8]で会議が開かれ、
西側諸国では西側のカール・ツァイスが「カール・ツァイス」を、東側のカール・ツァイスが「カール・ツァイス・イエナ」を名乗る[8]

東側諸国では東側のカール・ツァイスが「カール・ツァイス」を、西側のカール・ツァイスが「カール・ツァイス・オプトン」(Carl Zeiss Opton)を名乗る[8]

アフリカ、アジア、中南米地域では双方が「カール・ツァイス」を使用する[8]

西側諸国のうちイギリスと日本は例外的に双方が「ツァイス」を使用する[8]

と決められた。同様に戦前からの商標が使えない地域向けの商品には、ビオターがB[9]、ビオゴンがBi[10]、ビオメターがBm[9]、フレクトゴンがF[9]、プラナーがPl[10]、ゾナーがS[9]またはSo[10]、テッサーがT[9]、ディスタゴンがDi、ミクロターがMなど略号で示されているものがある。

サッカークラブのFCカールツァイス・イェーナ1903年に創設され、東ドイツ(DDR)時代には国を代表する強豪チームであった。2009-2010シーズン現在、ブンデスリーガ3部に所属している。
東西統一?その後

1989年?1990年に渡って行われたドイツ再統一により、東西に分かれていたカール・ツァイスも統合の道を歩むことになる。


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