カール・グスタフ・ユング
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少年期は己の内面に深い注意が向けられ、善と悪、神と人間についての思索に没頭する。「生涯忘れられない夢」を1879年または1880年に見られたとされる[4]

1886年、バーゼルの上級ギナジウムへ通う。かつて言語を研究していた父にラテン語の準備をしてもらってから入学した[4]。この時期に内なる性格としての「NO.2」が現れる。またバーゼル大聖堂に神が排泄する夢を見る。更に母親の示唆によって『ファウスト』が必読書となる[4]。また『ファウスト』は後々に衝動や無意識の認識の意味をテーマに扱ったと述べている[5]
バーゼル大学時代

1895年バーゼル大学医学部に入学。学生時代はゲーテカントニーチェの著作に感銘を受け、後の心理学者としての著作に、ゲーテの『ファウスト』やニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』への言及も多くみられる。内的な基盤を持たない形式的な信仰というものに疑問を感じ、牧師という職を継ぐことを特には望まず、バーゼル大学で医学を、特にクラフト=エビングの影響で精神医学を学んだ[6]

1896年には父親が亡くなり、学費を払うのが困難になり工面に苦労する。卒業後クリニックに勤めたのも資金を得るためである側面もあるとされる[4]
ニーチェとの関係

ユングが入学する15年程前にニーチェはバーセル大学で講師をしていた。ユングが入学した時も、当時公務を退いておりニーチェの先輩であり友人でもあったブルクハルトによるニーチェの批判的批評を筆頭として、哲学の高尚な学生はニーチェに対して批判的な議論を行っていたという。また、ニーチェの思想をあまり理解できていない学生内でもかつてのニーチェの所作などに関して噂していた[7]。そんな中、ユングは『ツァラトゥストラ』や『反時代的考察』に感銘を受ける。No.2はツァラトゥストラがモデルとなったという[4]。また後に「ニーチェによって近代心理学を受け入れる準備」をしたと語っている[5]。『無意識の心理』(1916) ではフロイトとアドラーとの分岐点をニーチェの「自己保存の衝動(性衝動に対する)」として紹介している。更には『心理学的類型』(1921) ではニーチェの「アポロン」と「デュオニソス」がユングの類型と連関していると明記。『心理学と宗教』(1940) では「神が死んだ時代」を論じ、またニーチェの精神障害は無意識に呑み込まれて分裂症的(自分をデュオニソスと署名した)になったという分析を行っている。1934年から1939年にかけてはチューリッヒの心理学クラブにて英語のゼミナールで『ニーチェのツァラトゥストラの心理学的分析』を行っている。
超心理学

1895年に従妹であるヘリーから降霊術に興味を持つ。そして後々の論文「いわゆるオカルト現象の心理と病理 」に「S.W.嬢」としてヘリーをモデルとして執筆している。但し論文では親族であるということを隠ぺいするためか、1899年から翌年に研究が行われたと記している。この時期、カントの『ある霊視者の夢』も読んでいる[4]
エービングの教科書

1899年10月国家試験に備えるためにリヒアルト・フォン・クラフト=エービングの精神医学の教科書(1890)を読んで、「自然と精神の衝突が出来事になる場所」「対立し合うものの合一」としての精神医学から衝撃を受ける。当時絶望の場として認識していたユングにとって「人格の病」と捉え「妄想観念や幻覚が精神病に特有の症状であるだけでなく、人間的な意味をもっているということを示すことであった」という部分に意味を見出したようだ[4]

1900年7月にバーゼル大学を卒業し、「ブルクヘルツリ」病院に勤めることを決め、12月には義務である兵役として初年兵学校に行き、アールガウで歩兵としての訓練を終えてから勤める。

バーゼルでは祖父あっての孫ユングとして見られることが多く、また母と妹のしがらみもあり、バーゼルを抜け出せることはユングの喜びでもあった[4]
「ブルクヘルツリ」時代

1901年からは、チューリヒ大学精神科クリニックの「ブルクヘルツリ」でオイゲン・ブロイラーの元で助手を務める。


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