カーブル
[Wikipedia|▼Menu]
カーブルを中心とするこの地域には「カーブリスターン」という名称がある[20]。カーブリスターンは南北と東西、それぞれを結ぶ交易路の交差点であるため、非常に古い時代から人の集住する町があった[6]:231。『リグヴェーダ』(紀元前15世紀頃成書)には Kubha という名前の町への言及があり、プトレマイオス地理書(紀元後2世紀)には Kabura という町の名前が記載されている[6]:231。

また、中国の文献には、後漢に成立した『漢書』「西域伝」(紀元後1世紀末)には、大月氏に服属する5つの有力な勢力の一つとして「高附城」を根拠とする「高附?侯」がいたと記録されている。三国時代(3世紀半ば)に成立した『魏略』「西戎伝」でも、同様に大月氏に服属する国の一つとして「高附国」が記録されている。一方、南北朝時代に成立した『後漢書』「西域伝」(5世紀半ば)ではやや異なり、大月氏から自立した貴霜(クシャーナ朝)が高附を占領したと記述する一方、『漢書』の「高附?侯」は「都密?侯」に書き換えられている。

「高附」の場所は諸説あるが、カーブルへの比定が有力説である。しかしカーブル川沿岸の別の集落や、カーピシーなどへの比定説もある[21]

後述するバーブルの登場以前のカーブルの前身となる町は小さな町にすぎない[22]
5世紀-7世紀

ムスリム支配以前のカーブル盆地、カーブリスターンの政治状況については、法顕(5世紀)や玄奘三蔵(7世紀)といった仏僧が残した漢籍史料や、征服前に当地を商売で訪れたアラブ商人の報告がいくつかの情報をもたらしている[22]。遅くとも7世紀前半の支配層は、夏をカーブル盆地で過ごし冬をパンジャーブで過ごす移動型の生活を営んでいた[22]。アラビア語史料は彼らを「トゥルク」と呼び[23]、彼らはヒンドゥー化したトルコ系遊牧民(トゥルクシャーヒー)であったと考えられるが[22]エフタル系民族の可能性もある[23][24]。彼らには「ズンビール」という称号を持つ王がおり、おそらくは太陽を崇拝する宗教を信じていた[23][24][25]
7世紀-9世紀

7世紀中ごろ(653-654年)、アラブ=ムスリムの大征服の波はカーブリスターンにも達し、スィースターン方面軍の将軍アブドゥッラフマーン・ブン・サムラ(カタルーニャ語版、アラビア語版)が派遣した一部隊は、ズンビールらを破ってカーブルの町を一時的に占領した[6]:231。その後、約200年間にわたりズンビールたちは、カーブリスターンを征服しようと遠征を繰り返すムスリムの諸勢力に抵抗したが、最終的には9世紀末ごろ、サッファール朝により駆逐された[22]。カーブルの町はこの200年余りの間繰り返された小競り合いの結果、破壊された[6]:231。

サッファール朝以後、カーブルの支配者はサーマーン朝ガズナ朝ゴール朝ホラズムシャー朝と遷移するがいずれにおいてもカーブルの都市化は進まず、官衙の類が設置されることすらもなかった[22]。中央ユーラシアから豊かなインドへと抜ける道のチョークポイントに近い場所であるため、いざインドへ攻め込む際には各地方の軍勢がここで落ち合った[22]。例えば、アブル・ファドル・バイハキー(英語版)の歴史書(英語版)には、1031年にガズナ朝スルターン・マスウード(アラビア語版)がカーブルで1670頭の戦象部隊を閲兵したという記事がある[22]。しかし、そのようなイベントのない平時はムスリム軍人が少数駐屯していただけの場所であり、カーブル周辺の諸郡や山岳は非イスラーム教徒が自ら治めていた[22]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:75 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef