また、中国の文献には、後漢に成立した『漢書』「西域伝」(紀元後1世紀末)には、大月氏に服属する5つの有力な勢力の一つとして「高附城」を根拠とする「高附?侯」がいたと記録されている。三国時代(3世紀半ば)に成立した『魏略』「西戎伝」でも、同様に大月氏に服属する国の一つとして「高附国」が記録されている。一方、南北朝時代に成立した『後漢書』「西域伝」(5世紀半ば)ではやや異なり、大月氏から自立した貴霜(クシャーナ朝)が高附を占領したと記述する一方、『漢書』の「高附?侯」は「都密?侯」に書き換えられている。
「高附」の場所は諸説あるが、カーブルへの比定が有力説である。しかしカーブル川沿岸の別の集落や、カーピシーなどへの比定説もある[21]。
後述するバーブルの登場以前のカーブルの前身となる町は小さな町にすぎない[22]。 ムスリム支配以前のカーブル盆地、カーブリスターンの政治状況については、法顕(5世紀)や玄奘三蔵(7世紀)といった仏僧が残した漢籍史料や、征服前に当地を商売で訪れたアラブ商人の報告がいくつかの情報をもたらしている[22]。遅くとも7世紀前半の支配層は、夏をカーブル盆地で過ごし冬をパンジャーブで過ごす移動型の生活を営んでいた[22]。アラビア語史料は彼らを「トゥルク」と呼び[23]、彼らはヒンドゥー化したトルコ系遊牧民(トゥルクシャーヒー)であったと考えられるが[22]、エフタル系民族の可能性もある[23][24]。彼らには「ズンビール」という称号を持つ王がおり、おそらくは太陽を崇拝する宗教を信じていた[23][24][25]。 7世紀中ごろ(653-654年)、アラブ=ムスリムの大征服の波はカーブリスターンにも達し、スィースターン方面軍の将軍アブドゥッラフマーン・ブン・サムラ
5世紀-7世紀
7世紀-9世紀
サッファール朝以後、カーブルの支配者はサーマーン朝→ガズナ朝→ゴール朝→ホラズムシャー朝と遷移するがいずれにおいてもカーブルの都市化は進まず、官衙の類が設置されることすらもなかった[22]。中央ユーラシアから豊かなインドへと抜ける道のチョークポイントに近い場所であるため、いざインドへ攻め込む際には各地方の軍勢がここで落ち合った[22]。例えば、アブル・ファドル・バイハキー(英語版)の歴史書(英語版)には、1031年にガズナ朝スルターン・マスウード(アラビア語版)がカーブルで1670頭の戦象部隊を閲兵したという記事がある[22]。しかし、そのようなイベントのない平時はムスリム軍人が少数駐屯していただけの場所であり、カーブル周辺の諸郡や山岳は非イスラーム教徒が自ら治めていた[22]。