ヴォネガットを含むアメリカ人捕虜の一団は、ドイツ軍が急ごしらえの捕虜収容所に使用した屠畜場の地下の肉貯蔵室で爆撃を生き延びた。ドイツ人はその建物を Schlachthof Funf(スローターハウス5、第5屠畜場)と呼んでいたため、捕虜たちが収容所をその名で呼ぶようになっていた。ヴォネガットはその爆撃の結果を「完全な破壊」であり「計りがたい大虐殺」だと言っている。この経験が有名な長編『スローターハウス5』に反映されており、少なくとも他の6冊の本の主要なテーマとなっている。『スローターハウス5』で彼はドレスデン市街の残骸を月面に似ていたと回想し、ドイツ市民の生き残りが捕虜たちをののしり石を投げる中で、死体をまとめて埋葬するために集める仕事をさせられたことを記している[8]。ヴォネガットはさらに「結局、埋葬するには死体が多すぎた。ドイツ軍は火炎放射器を持った部隊を送り込み、ドイツ市民の死体を全て灰になるまで燃やした」と記している[9]。
1945年5月、ヴォネガットはザクセン州とチェコスロバキアの境界線で赤軍によって送還された[8]。アメリカに戻るとパープルハート章を授与された。これについて彼は「滑稽なほど取るに足りない損傷」についての勲章だとしていたが[10][11]、後に『タイムクエイク』の中で捕虜時代の凍傷に対して授与されたものだと明かしている[12]。 1945年に除隊すると幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚。ヴォネガットはシカゴ大学大学院で人類学を学び、同時に City News Bureau of Chicago
戦後
1950年に作家デビューを果たし、広告業などの職業に就きながら作品を発表してゆく。1951年にマサチューセッツ州ケープコッドに居を移し[14]、サーブのアメリカ初の販売店の店長をつとめた[15]。1952年には初の長編となる『プレイヤー・ピアノ』が刊行。
1950年代中ごろ、ヴォネガットは短期間だけスポーツ・イラストレイテッド誌編集部で働き、柵を飛び越えて逃走しようとした競走馬についての記事を書くよう指示された。午前中ずっとタイプライタに挟まった真っ白な紙を見つめた後、彼は「馬はいまいましいフェンスを飛び越えた」とだけタイプし、編集部を去った[16]。作家として評価されず、執筆をやめてしまおうとする寸前の1965年、ヴォネガットはアイオワ大学の Writers' Workshop での講師の職を得た。彼の講義を受講した学生の中にはジョン・アーヴィング、レナード・シュレイダーなどがいた。講師をつとめている間に『猫のゆりかご』がベストセラーとなり、20世紀アメリカ文学の最高傑作の1つとされている『スローターハウス5』を完成させた。反体制の若者たちの間で熱狂的に支持されるようになると、1966年には絶版となっていた全作品がペーパーバックで再版された。『スローターハウス5』はタイム誌[17]や Modern Library[18] のベスト100に選ばれている。
2007年4月11日にニューヨークにて死去[2]。 当初、作者名として本名の「カート・ヴォネガット・ジュニア」を使っていたが、1976年の『スラップスティック』から「ジュニア」をとって単に「カート・ヴォネガット」とするようになった。兄のバーナード・ヴォネガットは気象学者でヨウ化銀を用いた人工降雨法を開発したほか、1997年度のイグノーベル賞を受賞している。 第二次世界大戦から戻った直後に幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚した。プロポーズのいきさつは何度か短編に書いている。1970年に別居したが、正式に離婚したのは1979年のことである。マハリシ・マヘッシ・ヨギに傾倒していた妻と確信的無神論者であるヴォネガットの間の宗教上の不一致が原因とされている。ただし、別居直後に後に結婚することになる写真家・児童文学者のジル・クレメンツと同棲し始めた[2]。クレメンツとの結婚は、前妻との離婚が成立して後のことである。 彼の7人の子供のうち、3人はジェーン・マリーとの子で、癌で早世した姉の3人の子を養子にし、さらにクレメンツの連れ子1人を養子とした。そのうちヴォネガットの唯一の実子の男子であるマーク・ヴォネガット
私生活
娘のエディスの名はヴォネガットの母からとったもので、彼女は後に画家になった。その妹のナネットの名はヴォネガットの父方の祖母の名をとったもので、彼女は Scott Prior という画家と結婚し、何度かモデルを務めている。
姉の子3人を引き取ったのは、姉の夫が1958年9月に列車事故で亡くなり、姉自身もその2日後に癌で亡くなったためである。その経緯は『スラップスティック』に描かれている。
1999年11月11日、小惑星 25399 Vonnegut にヴォネガットの名がつけられた[20]。
2001年1月31日、自宅の一部が火事になり、ヴォネガットは煙を吸い込んで一時危険な状態となり、4日間入院した。命に別状はなかったが、蔵書が失われた。退院後はマサチューセッツ州ノーザンプトンで療養した。
ヴォネガットはフィルターのないポールモールを好んで吸っていた。これについて自ら「高級な自殺方法」だと語っていた[21]。
2007年、マンハッタンの自宅の階段で転倒して脳に損傷を負い、その数週間後の4月11日に死去[2][22]。 1950年に短編「バーンハウス効果に関する報告書」でSF作家としてデビューした[23]。処女長編はディストピア小説『プレイヤー・ピアノ』(1952) で、人間の労働者が機械に置き換えられていく様を描いている。その後短編を書き続け、1959年に第2長編『タイタンの妖女』を出版[24]。1960年代には徐々に作風が変化していった。『猫のゆりかご』は比較的普通の構造だが、半ば自伝的な『スローターハウス5』ではタイムトラベルをプロット構築の道具として実験的手法を採用している。この作品から『チャンピオンたちの朝食』以降の後期作に受け継がれていく特徴的なスタイル(架空の人物の自伝的形態を採る、まえがきを持つ、イラストの多用、印象的な挿話を連ねる)が全面的に展開された。 ベストセラーとなった『チャンピオンたちの朝食』(1973) では作者本人が「デウス・エクス・マキナ」として登場する。
作家としての経歴