カーダール・ヤーノシュ
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しかし、その処遇は「プラハの春」後に改革派党員を除名したチェコスロバキア共産党グスタフ・フサーク第一書記の「正常化路線」に比べれば穏やかなものであった[7]

また「新経済メカニズム」も完全には廃止されず、1970年代後半の第二次石油危機以降は再び改革が進められるようになり、「社会主義市場経済」が目指されるようになった。経済改革は比較的高い生活水準を生み出し、ハンガリーは冷戦中は東ヨーロッパでもっとも住みよい地のひとつだった。1990年代に資本主義経済への転換過程で引き起こされた生活水準の劇的な低下のために、多くのハンガリー人がカーダール時代に郷愁を覚えている。この郷愁が元ハンガリー社会主義労働者党改革派の政治家ホルン・ジュラ元外相(ハンガリー社会党)の首相選出(1994年)と言う形で現れた。

カーダール時代には観光旅行が劇的に増加し、カナダアメリカ西ヨーロッパから多くの観光客が訪れ、多額の資金をハンガリーにもたらした。ハンガリーは欧米先進諸国と強い関係を築き、そして多くの外国人研究家が訪れた。国内を視察するカーダール(1984年)

1978年には「ハンガリー国王の聖冠」(第二次世界大戦期までのホルティ・ミクローシュ政権の政治的象徴性を伴うことを防ぐため、メディアにおいては「ハンガリーの王冠」と呼ばれた。)及び宝器がアメリカから首都ブダペストに返還された。

ハンガリーから西側への旅行も他の東側諸国に比べると比較的自由であり、1980年には380万人が西側へ旅行している[8]検閲も比較的緩やかであり、閣僚の指名は形式的ながら、党中央委員会政治局の決定だけでなく大衆組織「愛国人民戦線」と協議をして決定するなどの改革が行われた[8]

1982年には国際通貨基金(IMF)に加盟し、経済への市場原理の導入の徹底、個人企業の設立自由化、国営企業の党からの自立など経済の自由化が進んだ。政治的にも1983年には再び議会選挙が複数候補制となり、1985年には社会主義労働者党の党員以外からも国会議員に当選する者が出るようになった[9]

カーダールは国際レーニン平和賞を受賞した(1975年-76年)。カーダールはまた、1964年4月3日ソ連邦英雄の称号を授与された[10]

カーダールは政治・経済の改革を進める一方でソ連との友好維持にも努め、ソ連に付け入る隙を与えなかった[8]
罷免と死

カーダールは1988年までハンガリーの権力の座にあったが、経済改革の際に行った過度な投資が対外債務の増加に拍車をかけ、1980年代後半に入るとハンガリー経済は悪化し始めた。しかし高齢になったカーダールは保守化し、これ以上の改革に否定的になった。

1987年、カーダールと党の保守派は対外債務の返済に必要な財源を確保すべく、経済改革で誕生した富裕層に対し、所得税や財産税などを課税しようとしたが、これは国民の猛反発を受け、同年秋の国民議会では政府が提出した増税法案が否決された。政府提出法案が議会で否決されるという、社会主義体制下では今まで起こりえなかった事態が発生したのである。これによってカーダールと保守派は信頼を失い、1988年5月の党大会でカーダールは書記長辞任に追い込まれた[11]

カーダールの後継には穏健改革派のグロース・カーロイ(ハンガリー語版)首相が書記長となった。グロースはカーダール路線の継続に努め、一党独裁体制の枠内で党内民主化、党と国家の分離を行って改革を進めようとした[12]。カーダールは党総裁という儀礼的な地位に就任した。カーダールの墓

だが、同じく1988年の党大会で政治局に復帰したニエルシュ・レジエ(ハンガリー語版)や新たに政治局入りしたネーメト・ミクローシュ(1988年から首相)、ポジュガイ・イムレ(ハンガリー語版)愛国人民戦線書記長らの急進改革派は民主化を推進し、社会主義体制を解体し始めた。1989年6月にはニエルシュ・レジエが新たに創設された党の最高指導職である政治執行委員会幹部会議長の座に就き、グロースは事実上失脚した。老齢のカーダールはその直前の1989年5月に病気を理由に党総裁の職を解かれて政治から完全に排除され、その後まもなく77歳でその生涯を閉じた。
評価

カーダールはソ連の後ろ盾で1956年の改革を弾圧して権力者となり、また晩年は保守化したものの「妥協と中道の政治家」として改革を行った。その姿勢は、
東欧革命による社会主義政権崩壊で銃殺刑に処せられたルーマニアニコラエ・チャウシェスク、実刑判決を受けたブルガリアトドル・ジフコフ、国外逃亡した東ドイツエーリッヒ・ホーネッカーといった他の中東欧の共産主義国の指導者たちに比べれば高く評価された。改革派主導の党幹部会もカーダール死去時の追悼声明で「フルシチョフ失脚後もソ連共産党第20回大会非スターリン化)の理念を支持し続けた」と讃えている[13]

日本では、自著『ヤーノシュ・カダル : 新しいハンガリーへの道』(1974年)[14]と、評伝『カーダール・ヤーノシュ伝 : 現代ハンガリー史の証人 』(1985年)[15]恒文社から刊行されている。


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