カーダール・ヤーノシュ
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ソ連の影響を強く受けはしたが、カーダールは(例えば集団農場の農民に対して相当に大規模な私有地を許可するなど)ソ連に反する政策を実行し、政治犯の釈放やローマ教皇庁との和解を進め[3]、ナジによって廃止された秘密警察のハンガリー国家保衛庁も復活させないなど、東側社会主義国の中では比較的穏健な統治を行った。

1966年にはニエルシュ・レジエ書記らによって「新経済メカニズム」が導入され、市場経済の一部導入などを進めた。同年11月には国民議会選挙の候補者を複数候補制にするなどの政治改革も進められた[4]。これらの改革によってハンガリー経済は発展し、国民の所得も増加した[5]

1968年のワルシャワ条約機構軍によるプラハの春弾圧のためのチェコスロバキア侵入の際には最後まで反対し、チェコスロバキア共産党アレクサンドル・ドプチェク第一書記と会談を行うなど、軍事介入回避に努めた。結局、最後はソ連のレオニード・ブレジネフ書記長に「ヤーノシュ、ほんの小部隊を送るだけですべてを達成できるのだよ」と説得され、これに応じざるを得なかった[6]

1973年にソ連のブレジネフ政権の圧力によって、ハンガリー改革は後退を余儀なくされた。経済に対する党中央の統制が強められ、1974年には改革を主導していたニエルシュらも解任・左遷された。しかし、その処遇は「プラハの春」後に改革派党員を除名したチェコスロバキア共産党グスタフ・フサーク第一書記の「正常化路線」に比べれば穏やかなものであった[7]

また「新経済メカニズム」も完全には廃止されず、1970年代後半の第二次石油危機以降は再び改革が進められるようになり、「社会主義市場経済」が目指されるようになった。経済改革は比較的高い生活水準を生み出し、ハンガリーは冷戦中は東ヨーロッパでもっとも住みよい地のひとつだった。1990年代に資本主義経済への転換過程で引き起こされた生活水準の劇的な低下のために、多くのハンガリー人がカーダール時代に郷愁を覚えている。この郷愁が元ハンガリー社会主義労働者党改革派の政治家ホルン・ジュラ元外相(ハンガリー社会党)の首相選出(1994年)と言う形で現れた。

カーダール時代には観光旅行が劇的に増加し、カナダアメリカ西ヨーロッパから多くの観光客が訪れ、多額の資金をハンガリーにもたらした。ハンガリーは欧米先進諸国と強い関係を築き、そして多くの外国人研究家が訪れた。国内を視察するカーダール(1984年)

1978年には「ハンガリー国王の聖冠」(第二次世界大戦期までのホルティ・ミクローシュ政権の政治的象徴性を伴うことを防ぐため、メディアにおいては「ハンガリーの王冠」と呼ばれた。)及び宝器がアメリカから首都ブダペストに返還された。

ハンガリーから西側への旅行も他の東側諸国に比べると比較的自由であり、1980年には380万人が西側へ旅行している[8]検閲も比較的緩やかであり、閣僚の指名は形式的ながら、党中央委員会政治局の決定だけでなく大衆組織「愛国人民戦線」と協議をして決定するなどの改革が行われた[8]

1982年には国際通貨基金(IMF)に加盟し、経済への市場原理の導入の徹底、個人企業の設立自由化、国営企業の党からの自立など経済の自由化が進んだ。政治的にも1983年には再び議会選挙が複数候補制となり、1985年には社会主義労働者党の党員以外からも国会議員に当選する者が出るようになった[9]

カーダールは国際レーニン平和賞を受賞した(1975年-76年)。カーダールはまた、1964年4月3日ソ連邦英雄の称号を授与された[10]

カーダールは政治・経済の改革を進める一方でソ連との友好維持にも努め、ソ連に付け入る隙を与えなかった[8]
罷免と死

カーダールは1988年までハンガリーの権力の座にあったが、経済改革の際に行った過度な投資が対外債務の増加に拍車をかけ、1980年代後半に入るとハンガリー経済は悪化し始めた。しかし高齢になったカーダールは保守化し、これ以上の改革に否定的になった。

1987年、カーダールと党の保守派は対外債務の返済に必要な財源を確保すべく、経済改革で誕生した富裕層に対し、所得税や財産税などを課税しようとしたが、これは国民の猛反発を受け、同年秋の国民議会では政府が提出した増税法案が否決された。政府提出法案が議会で否決されるという、社会主義体制下では今まで起こりえなかった事態が発生したのである。これによってカーダールと保守派は信頼を失い、1988年5月の党大会でカーダールは書記長辞任に追い込まれた[11]

カーダールの後継には穏健改革派のグロース・カーロイ(ハンガリー語版)首相が書記長となった。グロースはカーダール路線の継続に努め、一党独裁体制の枠内で党内民主化、党と国家の分離を行って改革を進めようとした[12]


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