カーダール・ヤーノシュ
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そこでソ連の指導者たちは、ハンガリーでの「反革命」の展開はなんとしても終結させなければならないとカーダールに信じさせようとしたのだった。カーダールは最初その圧力に抵抗し、ナジ政府は社会主義体制の廃止を目論むものではないと主張した。カーダールがその圧力に屈したのは、ソ連の指導者たちからハンガリーに駐留するソ連軍が革命を弾圧するという決定は既に下されており、従来の共産主義指導体制がハンガリーに戻されるだろうと知らされた時だったのであり、カーダールには新政府首相の地位を引き受けるつもりはなかった。ソ連の戦車は革命を弾圧するため、11月4日の夜明けにブダペストに向かって動き出した。同日、カーダールを長とした、いわゆる「臨時労農革命政府」(Provisional Revolutionary Government of Workers and Peasants)の樹立宣言がソルノクから放送された。

カーダールはこの新政府のための「15項目の綱領」を宣言した。
ハンガリー国家の独立・主権を確保する。

人民民主主義社会主義体制をあらゆる攻撃から擁護する。

兄弟同胞の争いを終らせ、秩序を回復する。

完全対等および不干渉を基礎として、他の社会主義諸国と緊密な兄弟関係を築く。

政府の形態に関わりなく、全ての国々と平和のために協力する。

ハンガリー全ての国民の生活水準を早急かつ十分に向上させる。

生活水準におけるこの増加を考慮し、5カ年計画を修正する。

労働者の利益のために、密室政治を除去し、民主主義を広める。

広められた民主主義を基礎に、工場および企業においては、労働者による管理が行われねばならない。

農業生産を発展させ、強制配給を撤廃し、そして個々の農民に無償で資金援助をする。

すでに存在する行政府および革命評議会においては、民主的な選挙を保証する。

職人および小売業を支援する。

ハンガリーの革新的伝統の精神にのっとり、ハンガリー文化を発展させる。

人民の利益を代行するハンガリー革命労農政府は、我が国民が悪意ある反動勢力を打ち砕き、ハンガリーに秩序と平静を回復することを支援するよう、赤軍に要請する。

危機が去った後、ハンガリーに進駐したワルシャワ条約機構軍の撤退に関する交渉をワルシャワ条約機構側と行う。

カーダールはまた「敵対しない者は誰もが我らと共に」あり、「普通の人々は、弾圧はもとより監視さえも恐れる必要なく、その経済活動を続け、演説し、読み書くための正当な自由を得る」と付言した。これは、自らに従わない者を全て敵とみなしたスターリン主義独裁者ラーコシによる支配とは特筆すべき対照をなした。

綱領の15番目に掲げられた「ワルシャワ条約機構軍の撤収」は、20万の強力なソ連分遣隊がハンガリーに駐屯するというワルシャワ条約由来の圧力の後に撤回されたが、結果的にカーダールは巨額の国防予算を福祉予算に転用することができた。

ナジはルカーチ・ジェルジ、ロションツィ・ゲーザ (Losonczy Geza)、ライク・ラースロー未亡人ユリアをともない、ユーゴスラビア大使館に逃れた。カーダールは彼らからの求めに対して安全な帰還を約束したが、ソ連の党指導者達がユーゴスラビア大使館で亡命を求めたナジ・イムレおよび他の政府要員はルーマニアへ追放することにしたため、この約束は果たされなかった。後に、1956年の出来事におけるナジ・イムレ政府の責任について裁判が起こされた。これはたびたび延期されたが、最終的に被告は反逆ならびに「民主国家の秩序」の転覆の企てで有罪とされた。ナジ・イムレ、マレーテル・パール (Maleter Pal)、そしてギメシュ・ミクローシュ (Gimes Miklos) は死刑判決を受け、1958年6月16日に処刑された。ロションツィ・ゲーザとシゲシ・アッティラ (Szigethy Attila) の2人は裁判途中に不審な状況下で獄死した。
カーダール時代詳細は「グヤーシュ共産主義」を参照

ソ連の影響を強く受けはしたが、カーダールは(例えば集団農場の農民に対して相当に大規模な私有地を許可するなど)ソ連に反する政策を実行し、政治犯の釈放やローマ教皇庁との和解を進め[3]、ナジによって廃止された秘密警察のハンガリー国家保衛庁も復活させないなど、東側社会主義国の中では比較的穏健な統治を行った。

1966年にはニエルシュ・レジエ書記らによって「新経済メカニズム」が導入され、市場経済の一部導入などを進めた。同年11月には国民議会選挙の候補者を複数候補制にするなどの政治改革も進められた[4]。これらの改革によってハンガリー経済は発展し、国民の所得も増加した[5]

1968年のワルシャワ条約機構軍によるプラハの春弾圧のためのチェコスロバキア侵入の際には最後まで反対し、チェコスロバキア共産党アレクサンドル・ドプチェク第一書記と会談を行うなど、軍事介入回避に努めた。結局、最後はソ連のレオニード・ブレジネフ書記長に「ヤーノシュ、ほんの小部隊を送るだけですべてを達成できるのだよ」と説得され、これに応じざるを得なかった[6]

1973年にソ連のブレジネフ政権の圧力によって、ハンガリー改革は後退を余儀なくされた。経済に対する党中央の統制が強められ、1974年には改革を主導していたニエルシュらも解任・左遷された。しかし、その処遇は「プラハの春」後に改革派党員を除名したチェコスロバキア共産党グスタフ・フサーク第一書記の「正常化路線」に比べれば穏やかなものであった[7]

また「新経済メカニズム」も完全には廃止されず、1970年代後半の第二次石油危機以降は再び改革が進められるようになり、「社会主義市場経済」が目指されるようになった。経済改革は比較的高い生活水準を生み出し、ハンガリーは冷戦中は東ヨーロッパでもっとも住みよい地のひとつだった。1990年代に資本主義経済への転換過程で引き起こされた生活水準の劇的な低下のために、多くのハンガリー人がカーダール時代に郷愁を覚えている。この郷愁が元ハンガリー社会主義労働者党改革派の政治家ホルン・ジュラ元外相(ハンガリー社会党)の首相選出(1994年)と言う形で現れた。


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