大虐殺は、2回目の難民の流出(英語版)の引き金になり、難民の大多数が近隣のタイに逃げ、比較的少数ながらベトナムにも向かった[25]。ベトナムがカンボジアに侵攻したことで、クメール・ルージュ政権が1979年1月に打倒され、大虐殺が終わった[26]。2001年1月2日、カンボジア政府は、クメール・ルージュの指導者に対しカンボジア大虐殺に関与した責任を問うためにカンボジア特別法廷を設置した。裁判は2009年2月17日に開始され[27]、2014年8月7日にヌオン・チアとキュー・サムファンが、大虐殺に関与した人道に対する罪で終身刑の判決を受け収監された[28]。
歴史的な背景詳細は「カンボジアの歴史」を参照
クメール・ルージュの台頭詳細は「クメール・ルージュ」を参照
カンボジア内戦詳細は「カンボジア内戦」を参照
1968年に、クメール・ルージュは、公式にカンボジア全土で国家的な反乱を打ち出した。北ベトナムはこの決定を知らされていなかったものの、反乱が開始されてから、北ベトナム軍がクメール・ルージュにシェルターと兵器を援助した。こうした援助により、カンボジア軍が効率的に反撃することが不可能になった。その後の2年間で、ノロドム・シハヌーク(当時はシアヌークと表記されることも多かった)が止められなくなったために、反乱がより大きくなった。反乱が強大になったことで、政党はカンプチア共産党として正式に宣言した[29]。
シハヌークは1970年に国家元首を解任された(1970年カンボジアクーデター )。ロン・ヌル首相は国民議会の後押しを受けてシハヌークを追放し、親米政権のクメール共和国を設立した。中国共産党の助言を受け、シハヌークは追放先の北京でクメール・ルージュと同盟を組み、クメール・ルージュの名目上のトップになって、中国を後ろ楯に亡命政府(カンプチア王国民族連合政府)を支配した。ロン・ヌル軍の弱点を明確に認識し、アメリカ軍が航空戦力以外でいかなる形態の紛争に参加させられるのを嫌ったものの、ニクソン政権(英語版)は新クメール共和国の支援を発表した[30]。
1970年3月29日、北ベトナムはカンボジア軍に対し攻勢に出た。ソビエト連邦のアーカイブから明らかになった書類により、侵攻はヌオン・チアとの交渉の後にクメール・ルージュからの明確な要求でなされたものと判明した[31]。北ベトナム軍はカンボジア東部の大部分を侵略して、押し出される前にプノンペンの15マイル (24km) 圏内に到達した。シハヌークの追放から3ヶ月後の6月までに、国の3分の1である北部全体から政府軍を一掃した。政府軍を打倒した後に、北ベトナム軍は、地方の反乱勢力に、奪取した新たな領土を渡した。クメール・ルージュはさらに南部と南東部で「解放された」地域を確立し、北ベトナムと独立に運用された[32]。
シハヌークが訪問してクメール・ルージュへの支持を示すと、兵士の人員は6,000人から5万人に膨張した。新兵の多くは共産主義ではなく王を支持して戦った非政治主義の農民であり、ほとんど理解していなかった[33]。
1975年までに、ロン・ノル政権が弾薬を切らしてアメリカからの支援が途絶えると、政権が崩壊するのは時間の問題だった。1975年4月17日に、クメール・ルージュがプノンペンを占領して内戦が終わった。 1970年から1973年にかけて、アメリカは、クメール・ルージュがカンボジアの農村を荒廃させたことに対して、大規模な爆撃を行った。初期の爆撃は実際に1969年3月18日に始まったが、それより数年早く始まった。 爆撃によるカンボジア市民とクメール・ルージュの死者数は論争となっていて、広義のカンボジア内戦から正確な数を探りだすことは困難である。3万人から50万人の範囲で見積もられている。シハヌークは死者数を60万人としている。
アメリカの爆撃
毛沢東時代詳細は「大躍進政策」および「文化大革命」を参照ポル・ポト(1978).
1950年代から、ポル・ポトは頻繁に中国を訪問して、中国共産党の党員から、政治的、軍事的な教育、特にプロレタリア独裁の理論についての教育を受けていた[4][6][34][35]。1965年11月から1966年2月まで、陳伯達や張春橋といった共産党の高官から、中国共産主義革命(英語版)、階級闘争、コミンテルンなどを教育された[35]。またポル・ポトはケ小平や彭真といった他の党員にも会った[34]。特に政治的な粛清に関する康生の講義に感銘を受けていた[4][35]。毛沢東、彭真、ノロドム・シハヌーク、劉少奇 (1965).
1970年に、ロン・ノルがシハヌークを追放して、シハヌークは、ポル・ポトが訪問していた北京に逃亡した。中国共産党の助言で、クメール・ルージュはシハヌーク支持に立場を変え、カンプチア民族統一戦線(英語版)を設立した。伝えられるところによれば、中国は1970年だけで民族統一戦線に400トンの軍事的な援助を与えたとされる[36]。1974年4月に、シハヌークとクメール・ルージュの指導者イエン・サリとキュー・サムファンが北京で毛沢東と会った。毛沢東はクメール・ルージュが提案した政策に同意したが、内戦に勝った後の新カンボジアにおいてシハヌークを社会的に排除することには反対した[34][37]。1975年に、クメール・ルージュはクメール共和国を打倒して、カンボジア大虐殺を開始した。
1975年6月に、ポル・ポトとクメール・ルージュの構成員は北京で毛沢東と会い、毛沢東はポル・ポトに持論の「无????政下??革命理?(プロレタリア独裁の下で革命を継続するための理論)」を説き、姚文元が執筆した2つの記事を勧め、カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス、ウラジーミル・レーニン、ヨシフ・スターリンが執筆した30冊を超える本を贈った[6][8][34]。