最高賞はパルム・ドール(Palme d'Or)と呼ばれ、ノミネートされた20本前後の映画作品の中から選ばれる。二本以上の作品が選ばれる年もある。当初は最高賞を「グランプリ」(Grand Prix du Festival International du Film、国際映画祭のグランプリ)としていたが、1955年にトロフィーの形にちなんだ「パルム・ドール」(黄金のシュロ)を正式名称とし、「グランプリ」とも呼ばれる形とした。1965年に最高賞の正式名称を「グランプリ」に戻すが、1975年に再度「パルム・ドール」としている。長らくカンヌにおいては「グランプリ」とは最高賞の正式名称もしくは別名であったが、1990年に審査員特別賞('Grand Prix Special du Jury')に「グランプリ」の名が与えられることとなり、混乱を招いている。
年度別に関してはCategory:カンヌ国際映画祭を参照。
1960年にアニメーション部門を独立させ、アヌシー国際アニメーション映画祭を設立した。このため、長年に渡り原則としてアニメーション作品はノミネートされなかったが、近年ようやく時代の変化を受け、徐々にノミネートを試み始めている。 1930年代後半、ファシスト政府の介入を受け次第に政治色を強めたヴェネツィア国際映画祭に対抗するため、フランス政府の援助を受けて開催されることになったのがカンヌ国際映画祭である。1939年から開催の予定だったが、当日に第二次世界大戦勃発のため中止。終戦後の1946年に正式に開始されることになった。 しかし1948年から1950年まで、予算の関係で開催されず、1951年に再び開催。この頃からパレ・デ・フェスティバルが会場として使用されている。 1968年には五月革命が起こり、ルイ・マル、フランソワ・トリュフォー、クロード・ベリ、ジャン=ガブリエル・アルビコッコ、クロード・ルルーシュ、ロマン・ポランスキー、ジャン=リュック・ゴダールなどの要請により、映画祭が中断されるという事態が起こった(1968年のカンヌ映画祭
歴史
2020年は新型コロナウイルスの感染拡大を受け、開催が延期された[5]。またパルム・ドールなどの選考も中止。 会長職はフランス映画産業と文化・通信省、外務省、議会の代表者で構成されるフランス国際映画祭協会によって選出される[6]。2014年には34年間映画祭の運営に携わってきたジル・ジャコブ
運営
映画祭のメインの運営資金は、半分以上が文化・通信省管轄のフランス国立映画センター(フランス語版)(CNC)から融資されている[7]。フランスでは文化特例制度と呼ばれる映画振興政策が取られておりフランス国内で公開された映画は入場料の10.72%が特別追加税として差し引かれ、更にビデオ制作会社やテレビ事業者からの税収がCNCが行う助成活動の資金となる[8]。このため映画祭に出品される映画は、文化特例制度を遵守している必要があり、フランス国内での公開が義務付けられる上に、一般公開日後のメディア化や動画配信の際に規定のスケジュールを守らない場合には出品が認められない。2017年にはNetflixが一般公開せず、限定公開後に間もなく動画配信を行ったが、2018年からの出品が認められなくなっている[7]。 2007年に開催60回記念として、映画『それぞれのシネマ?カンヌ国際映画祭60回記念製作映画?』が映画祭公式で製作、上映された。「それぞれのシネマ」は映画祭プロデューサー、ジル・ジャコブの呼びかけにより、映画祭にゆかりのある監督たちがそれぞれの「映画館」への想いを3分間でつづったオムニバス映画。参加監督は以下の通り(()内は主な作品)。
60回記念製作映画
レイモン・ドゥパルドン(『アフリカ、痛みはいかがですか
北野武(『HANA-BI』)
テオ・アンゲロプロス(『永遠と一日』)
アンドレイ・コンチャロフスキー(『映写技師は見ていた』)
ナンニ・モレッティ(『息子の部屋』)
ホウ・シャオシェン(『悲情城市』)
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ(『ロゼッタ』)
ジョエル&イーサン・コーエン(『ノーカントリー』)
デヴィッド・リンチ(『マルホランド・ドライブ』)
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(『バベル』)
チャン・イーモウ(『HERO』)
アモス・ギタイ(『キプールの記憶』)
ジェーン・カンピオン(『ピアノ・レッスン』)
アトム・エゴヤン(『スウィート ヒアアフター』)