1955年から1960年、ミズーリ州スプリングフィールドからテレビ局ABCおよびラジオの『Ozark Jubilee 』が全米放送され、カントリー・ミュージックの番組が増えた。1956年、ウエブ・ピアスは「昔々、ニューヨークなどではカントリーは売れなかった。現在テレビ局は私たちをどこにでも連れて行き、カントリーのレコードは大都市を含めてどこでも売られるようになった」と語った[49]。
1950年代後期、ラボック・サウンドが登場したが、終盤、その反動でレイ・プライス、マーティ・ロビンズ、ジョニー・ホートンなどの伝統的なアーティストが1950年代中期に影響を受けたロック界からシフトし始めた。
ナッシュビル・サウンドおよびカントリーポリタン・サウンド詳細は「ナッシュビル・サウンド」を参照
1950年代中期から1960年代初頭をピークに、ナッシュビル・サウンドがテネシー州ナッシュビルを数百万ドルのカントリー・ミュージック産業の中心地にした。チェット・アトキンス、ポール・コウエン、オウエン・ブラッドリー、ボブ・ファーガソン、のちにビリー・シェリルなどのプロデューサーの指示のもと、様々な趣向の観客にカントリー・ミュージックを届け、商業的に落ち着いてきたカントリー・ミュージックの再建に加担した[50]。
1950年代からこのサブジャンルは、派手で洗練されたヴォーカル、弦楽器やコーラスのいるバンドでポップのスタイルを汲むようになった。楽器演奏の「リック」のソロはあまり主張しないようになった。このジャンルの著名なアーティストにはジム・リーヴズ、スキータ・デイヴィス、ザ・ブラウンズ[51]、パッツィー・クライン、エディ・アーノルドなどがいる。スタジオ・ミュージシャンのフロイド・クレイマーの「スリップ・ノート」のピアノ奏法はこのスタイルの重要な要素であった。
ナッシュビルのポップ・ソングの構成はより認知され、カントリーポリタンと呼ばれる形に変形した。カントリーポリタンは市場の主流を直に狙い、1960年代後期から1970年代初頭まで売上を伸ばした(ただしこの時代、ブリティッシュ・インヴェイジョンによりアメリカのポピュラー音楽は打撃を受けた)。主なアーティストにはタミー・ワイネット、リン・アンダーソン、チャーリー・リッチや元「ハード・カントリー」のレイ・プライス、マーティ・ロビンズなどがいる。
ナッシュビル・サウンドの台頭にも関わらず、ロレッタ・リン、マール・ハガード、バック・オウエンズ、ポーター・ワゴナー、ソニー・ジェイムズなどトラディショナル・カントリーのアーティストも登場し、活躍した。
カントリー・ソウル詳細は「カントリー・ソウル」を参照
1962年、ジャズ・ソウルのレイ・チャールズがカントリーのアルバムを制作し、シングル『I Can't Stop Loving You 』、アルバム『Modern Sounds in Country and Western Music 』.[52]を出版し、『ビルボード』誌のポップ・チャートで第1位および年間チャートで第3位を獲得してポップ業界を騒がせた[53]。
ベイカーズフィールド・サウンド詳細は「ベイカーズフィールド・サウンド」を参照
カリフォルニア州ロサンゼルスから北北西112マイル (180 km)のベイカーズフィールドを発祥とする、ウエスタン・スウィングの流れを汲むハードコア・ホンキートンクの新たなジャンルが広がってきた。西海岸居住歴のあるボブ・ウィルズ、レフティ・フリッツェルの影響により、1966年までにベイカーズフィールド・サウンドと呼ばれるようになった。この時代のカントリーの他のサブジャンルよりもフェンダー・テレキャスターなどのエレクトリックな楽器やアンプを使用し、シャープでハードで力強く、シンプルで最先端の音であった。このスタイルのミュージシャンにはバック・オウエンズ、マール・ハガード、トミー・コリンズ、ゲイリー・アラン、ウィン・スチュワートなどがいたが、それぞれが違ったスタイルであった[54][55]
カントリー・ロック詳細は「カントリーロック」を参照
1960年代後期、カントリーが様々なジャンルに分化した結果、派生ジャンルが生まれた。ブリティッシュ・インヴェイジョンの後、古い体系のロックに回帰するようになった。同時にナッシュビルで生産されるカントリーへの熱狂が減少してきた。このクロスオーバーしたジャンルがカントリーロックとして知られるようになった。
1960年代および1970年代に流行したこの新しいスタイルの初期の導入者には、カントリーへ回帰した第一人者のボブ・ディランなどがおり、1967年にアルバム『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を出し[56]、次の『ナッシュヴィル・スカイライン』はよりカントリー色が濃い。続いてジーン・クラーク、クラークが以前所属していたバーズ(グラム・パーソンズの『ロデオの恋人』を含む)、フライング・ブリトー・ブラザーズ(グラム・パーソンズが所属)、C.C.R.、ニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セイジ、ニッティ・グリッティ・ダート・バンド、ギタリストのクラレンス・ホワイト、マイク・ネスミス、グレイトフル・デッド、ニール・ヤング、コマンダー・コディ、オールマン・ブラザーズ・バンド、マーシャル・タッカー・バンド、ポコ、バッファロー・スプリングフィールド、イーグルスなどがいる。ローリング・ストーンズも『カントリー・ホンク』や『ホンキー・トンク・ウィメン』、『Dead Flowers 』でカントリー・ロックを取り入れた。
オールミュージックに、カントリー・ロックの父と称された[57] グラム・パーソンズの1970年代初頭の作品はその新鮮さと伝統的カントリー・ミュージックへの敬意で評価された[注 3]。1973年に突然亡くなった彼の遺志は友人でデュエット・パートナーでもあったエミルー・ハリスに引き継がれた。1975年にハリスはカントリー、ロックンロール、フォーク、ブルース、ポップを融合してソロ・デビューした。
カントリーとロックという対局する2つのジャンルが融合し、その結果サザン・ロック、ハートランド・ロックが生まれ、その後オルタナティヴ・カントリーが生まれた。
その後数十年の間にジュース・ニュートン、アラバマ、ハンク・ウイリアムズ・ジュニア(およびその子ハンク・ウイリアムズ・サード)、ゲイリー・アラン、シャナイア・トゥエイン、ブルックス&ダン、フェイス・ヒル、ガース・ブルックス、ドワイト・ヨアカム、スティーヴ・アール、ドリー・パートン、ロザンヌ・キャッシュ、リンダ・ロンシュタットなどがカントリー・ロックの影響を受けた作品を発表した。