1950年代中盤にも、R&B、ジャズ、ブルース、ゴスペルといった黒人音楽との融合が行われ、ロックンロールのキング、エルヴィス・プレスリーに代表される、ロカビリー(ロックとヒルビリー
の融合)スタイルのミュージシャンを多く生み出した。さらにスウィングやブギといったジャズのリズムを取り入れることにも成功、カントリー自体が様々な方向へと多様化・細分化し始める。 また、このころを境に、民謡やヒルビリー(丘陵地帯の田舎者)音楽という概念は薄れ始め、ソフトなラブソングやバラードなどで女性的、または都会的なイメージを強調する路線や、男性は馬ではなくピックアップトラックやトラクターを運転する現代的なカウボーイやレッドネック(南部の粗野な田舎者)のイメージ、さらにロカビリーの影響でアウトローを強調するジャンルも追加された。 そして1960年代にはフォーク・リヴァイヴァル・ムーブメントの影響もあり、カントリーの人気がさらに盛り上がる。この頃から“聖地”ナッシュビルとは別に、カリフォルニア州ベーカーズフィールドやテキサス州などから新しいサウンドが生まれ新たな流れを作り始めた。バック・オーウェンス・アンド・ヒズ・バッカルーズはその代表的な存在であり、カントリーとは無縁なクラシックの“聖地”カーネギー・ホールでコンサートを行い、大成功を収めた。1950年代初頭までに、ウエスタン・スウィング、カントリー・ブギ、ホンキートンクの融合が多くのカントリー・バンドにより演奏されるようになった。1950年代後期、南西部やメキシコ北部のカウボーイ・バラードやテハノ・ミュージックの影響を受けたウエスタン・ミュージックは人気が最高潮となった。特に1959年9月にマーティ・ロビンズにより収録された『El Paso 』が知られている。
カントリー・ミュージック・シーンは楽器編成や起源の類似にかかわらず、フォーク・リバイバルとフォークロックは距離を保っていた。例えばバーズが『オープリー』に出演した際は観客からヤジが飛んだ。大きな問題は政治的なことであった。バール・アイヴス、ジョン・デンバー、カナダのミュージシャンであるゴードン・ライトフットはフォークの後、カントリー・ミュージックにクロスオーバーした。
1950年代中期、カントリー・ミュージックの新たなスタイルが人気となり、のちにロカビリーと呼ばれるようになった[45]。
ロカビリー詳細は「ロカビリー」を参照
1950年代、カントリー・ファンの間でロカビリーは最も人気があり、1956年は「ロカビリーの年」とも呼ばれた。ロカビリーはロックンロールとヒルビリー・ミュージックの合成語である[46]。この頃、当時音楽業界で大きな役割を担っていたエルヴィス・プレスリーがカントリー・ミュージック界に進出した。56年の『ビルボード』ポップの「年間チャート」の第4位はプレスリーの『ハートブレイク・ホテル』、第21位はカール・パーキンスの『ブルー・スエード・シューズ』だった[47]。ジョニー・キャッシュ
1958年、プレスリーの『Don't(ドントまずいぜ)』が年間第7位となった[48]。プレスリーはリズム・アンド・ブルースの影響を受けており、彼のスタイルについて彼は「私が物心つく前から有色人種の方々が演奏してきたものを今私がやっているだけ」と語った。しかし彼はさらに「私のスタイルはカントリーをテンポよくしただけ」とも語っている[43]。数年の間で多くのロカビリー・ミュージシャンが流行りのスタイルに回帰し、それ以外の者が独自路線を確立した。
1955年から1960年、ミズーリ州スプリングフィールドからテレビ局ABCおよびラジオの『Ozark Jubilee 』が全米放送され、カントリー・ミュージックの番組が増えた。1956年、ウエブ・ピアスは「昔々、ニューヨークなどではカントリーは売れなかった。現在テレビ局は私たちをどこにでも連れて行き、カントリーのレコードは大都市を含めてどこでも売られるようになった」と語った[49]。
1950年代後期、ラボック・サウンドが登場したが、終盤、その反動でレイ・プライス、マーティ・ロビンズ、ジョニー・ホートンなどの伝統的なアーティストが1950年代中期に影響を受けたロック界からシフトし始めた。
ナッシュビル・サウンドおよびカントリーポリタン・サウンド詳細は「ナッシュビル・サウンド」を参照
1950年代中期から1960年代初頭をピークに、ナッシュビル・サウンドがテネシー州ナッシュビルを数百万ドルのカントリー・ミュージック産業の中心地にした。チェット・アトキンス、ポール・コウエン、オウエン・ブラッドリー、ボブ・ファーガソン、のちにビリー・シェリルなどのプロデューサーの指示のもと、様々な趣向の観客にカントリー・ミュージックを届け、商業的に落ち着いてきたカントリー・ミュージックの再建に加担した[50]。
1950年代からこのサブジャンルは、派手で洗練されたヴォーカル、弦楽器やコーラスのいるバンドでポップのスタイルを汲むようになった。楽器演奏の「リック」のソロはあまり主張しないようになった。このジャンルの著名なアーティストにはジム・リーヴズ、スキータ・デイヴィス、ザ・ブラウンズ[51]、パッツィー・クライン、エディ・アーノルドなどがいる。スタジオ・ミュージシャンのフロイド・クレイマーの「スリップ・ノート」のピアノ奏法はこのスタイルの重要な要素であった。
ナッシュビルのポップ・ソングの構成はより認知され、カントリーポリタンと呼ばれる形に変形した。カントリーポリタンは市場の主流を直に狙い、1960年代後期から1970年代初頭まで売上を伸ばした(ただしこの時代、ブリティッシュ・インヴェイジョンによりアメリカのポピュラー音楽は打撃を受けた)。主なアーティストにはタミー・ワイネット、リン・アンダーソン、チャーリー・リッチや元「ハード・カントリー」のレイ・プライス、マーティ・ロビンズなどがいる。
ナッシュビル・サウンドの台頭にも関わらず、ロレッタ・リン、マール・ハガード、バック・オウエンズ、ポーター・ワゴナー、ソニー・ジェイムズなどトラディショナル・カントリーのアーティストも登場し、活躍した。