カントリー・ミュージック
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1938年、ボブ・ウィルズはカントリーで初めてエレクトリック・ギターをバンドに追加した[16]。10年後の1948年、アーサー・ギター・ブギ・スミスはMGMレコードから『Guitar Boogie 』でカントリー・チャートのトップ10だけでなくポップ・チャートでもクロスオーバー・ヒットし、エレクトリック・ギターの将来性を提示した。数十年、ナッシュビルのスタジオ・ミュージシャンギブソングレッチのアーチトップの温かみのある音を好んでいたが、1950年代初頭より、「ホットな」フェンダーの音がカントリーの特徴的なギターの音として浸透した[37][38]
ヒルビリー・ブギ

1939年、ジョニー・バーフィールドカーネギー・ホールで『Boogie Woogie 』を演奏すると、カントリー・ミュージシャンはブギの収録を始めた。これらは当初「ヒルビリー・ブギ」「オーキー・ブギ」(のちに「カントリー・ブギ」と改名)と呼ばれ、1945年後期から流行り始めた。この当時の代表曲はデルモア・ブラザーズの『Freight Train Boogie 』などで、ロカビリーの前の、カントリー・ミュージックとブルースの展開の1つとされている。1948年、アーサー・ギター・ブギ・スミスがMGMレコードからの『Guitar Boogie 』や『Banjo Boogie 』でカントリー・チャートのトップ10にランクインし、ポップ・チャートでもクロスオーバー・ヒットした[39]。他のカントリー・ブギのアーティストにはメリル・ムーアやテネシー・アーニー・フォードなどがいる。1950年代までヒルビリー・ブギの人気は続き、21世紀にもカントリーの多くのサブ・ジャンルの1つとされている。
ブルーグラス、フォーク、ホワイトゴスペル

第二次世界大戦終結前、『オープリー』においてロイ・エイカフにより紹介されたレスター・フラットとアール・スクラッグスにビル・モンローが参加し、「マウンテニア」・ストリング・バンドの音楽はブルーグラスと融合した。ゴスペルもカントリー・ミュージックの一部として人気があった。大戦後最大のカントリー・スターであったレッド・フォリーは『Peace in the Valley 』でゴスペルで初の100万枚の売り上げを達成し、ブギ、ブルース、ロカビリーも歌った。

戦後、カントリー・ミュージックは商取引の場では「フォーク」、音楽産業業界では「ヒルビリー」と呼ばれた[40]。1944年、『ビルボード』誌は「ヒルビリー」を「フォーク・ソング・アンド・ブルース」と記し、1949年には「カントリー」または「カントリー・アンド・ウエスタン」と記すようになった[41][42]
ホンキートンクハンク・ウイリアムズ

テキサス州やオクラホマ州の貧困白人の間で、ギター、ベース、ドブロまたはスティール・ギター、ドラムを使用したベーシックなアンサンブルや様々なタイプの粗野な音楽が人気となった。これらは特にテキサス州で南部のブルースと共に、ウエスタン・スウィング、メキシコや国境近くのランチェラをルーツとしたホンキートンクとして知られるようになった。ボブ・ウィルズと彼のバンドであるテキサス・プレイボーイズはこの音楽について「これを少し、あれを少し、黒人音楽を少し、白人音楽を少し…考えすぎない程度に、ウイスキーを注文できる程度にうるさい」と解説した[43]。テキサス州東部出身のアル・デクスターは『Honky Tonk Blues 』を、また7年後に『Pistol Packin' Mama 』をヒットさせた[44]アーネスト・タブキティ・ウェルズ(初のメジャーな女性カントリー・ソロ歌手)、テッド・ダファン、フロイド・ティルマン、マドックス・ブラザーズ・アンド・ローズ、レフティ・フリッツェル、ハンク・ウィリアムズなど、これらの「ホンキートンク」の曲は酒場で流行り、のちに「トラディショナル」・カントリーと呼ばれるようになった。ジョージ・ジョーンズなどのホンキートンク・スターが新たに誕生する一方で、特にウィリアムズなどがチャック・ベリーアイク・ターナーと同様にエルヴィス・プレスリージェリー・リー・ルイスなどのロックンロールの多くのパイオニアに多大な影響を与えた。1950年代、ウエブ・ピアスは13曲のシングルが計113週第1位を獲得し、常にチャートのトップに君臨するカントリー・アーティストとなった。約10年間で48曲がチャート入りし、うち31曲がトップ10に、さらにそのうち26曲が第4位以内に入った。
1950 - 1960年代、第3世代

1950年代中盤にも、R&Bジャズブルースゴスペルといった黒人音楽との融合が行われ、ロックンロールのキング、エルヴィス・プレスリーに代表される、ロカビリーロックとヒルビリーの融合)スタイルのミュージシャンを多く生み出した。さらにスウィングブギといったジャズのリズムを取り入れることにも成功、カントリー自体が様々な方向へと多様化・細分化し始める。 また、このころを境に、民謡やヒルビリー(丘陵地帯の田舎者)音楽という概念は薄れ始め、ソフトなラブソングバラードなどで女性的、または都会的なイメージを強調する路線や、男性は馬ではなくピックアップトラックトラクターを運転する現代的なカウボーイやレッドネック(南部の粗野な田舎者)のイメージ、さらにロカビリーの影響でアウトローを強調するジャンルも追加された。 そして1960年代にはフォーク・リヴァイヴァル・ムーブメントの影響もあり、カントリーの人気がさらに盛り上がる。この頃から“聖地”ナッシュビルとは別に、カリフォルニア州ベーカーズフィールドテキサス州などから新しいサウンドが生まれ新たな流れを作り始めた。バック・オーウェンス・アンド・ヒズ・バッカルーズはその代表的な存在であり、カントリーとは無縁なクラシックの“聖地”カーネギー・ホールでコンサートを行い、大成功を収めた。

1950年代初頭までに、ウエスタン・スウィング、カントリー・ブギ、ホンキートンクの融合が多くのカントリー・バンドにより演奏されるようになった。1950年代後期、南西部やメキシコ北部のカウボーイ・バラードやテハノ・ミュージックの影響を受けたウエスタン・ミュージックは人気が最高潮となった。特に1959年9月にマーティ・ロビンズにより収録された『El Paso 』が知られている。

カントリー・ミュージック・シーンは楽器編成や起源の類似にかかわらず、フォーク・リバイバルとフォークロックは距離を保っていた。例えばバーズが『オープリー』に出演した際は観客からヤジが飛んだ。大きな問題は政治的なことであった。バール・アイヴスジョン・デンバー、カナダのミュージシャンであるゴードン・ライトフットはフォークの後、カントリー・ミュージックにクロスオーバーした。

1950年代中期、カントリー・ミュージックの新たなスタイルが人気となり、のちにロカビリーと呼ばれるようになった[45]
ロカビリー詳細は「ロカビリー」を参照

1950年代、カントリー・ファンの間でロカビリーは最も人気があり、1956年は「ロカビリーの年」とも呼ばれた。ロカビリーはロックンロールとヒルビリー・ミュージックの合成語である[46]。この頃、当時音楽業界で大きな役割を担っていたエルヴィス・プレスリーがカントリー・ミュージック界に進出した。56年の『ビルボード』ポップの「年間チャート」の第4位はプレスリーの『ハートブレイク・ホテル』、第21位はカール・パーキンスの『ブルー・スエード・シューズ』だった[47]ジョニー・キャッシュ

1958年、プレスリーの『Don't(ドントまずいぜ)』が年間第7位となった[48]


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