1930年代から1940年代の第2世代、ラジオが娯楽として人気になり、南部を中心に北はシカゴ、西はカリフォルニア州までカントリー・ミュージックに合わせて「バーン・ダンス」を踊るようになった。重要なのは、1925年にテネシー州ナッシュビルのWSM で『グランド・オール・オープリー』が始まり、21世紀も続いていることである。1930年代と1940年代、1920年代から収録されたカウボーイ・ソングやウエスタン・ミュージックがハリウッドで製作された映画で使用されて人気が高まった。グレートプレーンズ出身のボブ・ウィルズは「ホット・ストリング・バンド」のリーダーとして人気を博し、西部劇の映画にも出演した。彼のカントリーとジャズをミックスしたスタイルはダンス・ホールで流されるようになり、ウエスタン・スウィングとして知られるようになった。1938年、ウィルズはバンドに初めてエレクトリック・ギターを取り入れたカントリー・ミュージシャンとなった[16]。1939年、カントリー・ミュージシャンはブギを収録するようになり、ジョニー・バーフィールドが『Boogie Woogie 』を収録し、カーネギー・ホールで演奏した。
1950年代から1960年代の第3世代が第二次世界大戦終戦後に開始し、『グランド・オール・オープリー』でロイ・エイカフに紹介されたレスター・フラットとアール・スクラッグスと共に登場したビル・モンローにより演奏されたマウンテニア・ストリング・バンド・ミュージックがブルーグラスとして知られるようになった。カントリー・ミュージックの中でもゴスペルの人気は健在であった。特にテキサス州やオクラホマ州の貧困白人の間ではギター、ベース、ドブロ、スティール・ギター、ドラムを使用したベーシックなアンサンブルや様々なムードのシンプルで粗野な音楽が人気があった。これがウエスタン・スウィングやメキシコや国境近くのランチェラをルーツにホンキートンクとして知られるようになった。1950年代初頭までにウエスタン・スウィング、カントリー・ブギ、ホンキートンクが多くのカントリー・バンドで演奏されるようになった。1950年代にはカントリー・ファンの間ではロカビリーが最も人気となり、1956年は「ロカビリーの年」と呼ばれた。1950年代中期から1960年にかけてテネシー州ナッシュビルがナッシュビル・サウンドで数100万ドルを生み出す産業中心地となった。1960年代後期、伝統主義者はこの反動で別のジャンルに派生した。ブリティッシュ・インヴェイジョンの影響で多くの人々が古いタイプのロックンロールを好むようになった。それと同時にナッシュビルで生産されるカントリーへの熱狂も薄れてきた。この結果カントリーロックというジャンルが生まれた。
1970年代から1980年代の第4世代、ナッシュビル・サウンドの派生であるフォーク・ミュージックをルーツとするアウトロウ・カントリー、ポップ・カントリーが人気となった。1972年から1975年、歌手でギター奏者のジョン・デンバーがカントリーとフォーク・ロックをブレンドした数々のヒット曲を生み出した。1980年代初頭、カントリー・アーティストの曲がポップ・チャートに登場し続けた。1980年、ネオカントリーが人気となった。1980年代中期、ラジオやチャートで伝統的な曲への回帰が起こり、多くの新人アーティストの洗練されたカントリー・ポップは流されなくなった。
1990年代の第5世代、カントリー・ミュージックはガース・ブルックスの人気に乗じて世界的人気となった。1990年代から2000年代初頭、ディクシー・チックスが最も人気のあるカントリー・バンドの1つとなった。
2000年代以降の代表的な女性カントリー・シンガーの一人に、キャリー・アンダーウッドがいる。2000年代後期および2010年代初頭、カントリーでのロックの影響は顕著になった。パンクとカントリーの融合のパイオニアはジェイソン&スコーチャーズや、ロング・ライダーズなどの1980年代の南カリフォルニアのカウパンク・バンドであった。ヒップホップもカントリー・ミュージックと融合し、カントリー・ラップとなった[17]。この時期にヒットしているカントリー曲はレディ・アンテベラム、フロリダ・ジョージア・ライン、テイラー・スウィフトなどのカントリー・ポップである[18]。
1920年代、第1世代: 源流と成立ヴァーノン・ダルハート
北米大陸へ移住してきたアイルランド・スコットランド・イングランドなどを中心とした移民が持ち込んだ音楽や、東欧からの移民が持ち込んだヨーデル、ポルカなどがアパラチア山脈一帯やアメリカ北東部からアメリカ南部にかけての山岳丘陵地帯の農村などで様々な音楽の影響を受け、オールドタイム・ミュージックやヒルビリー・ミュージックと呼ばれるアメリカ民謡の基礎を形成する。 それが19世紀後半の鉄道網の発達、蓄音機の発明、20世紀前半のラジオの普及になどにともなって北米大陸全土に広まり、その伝統民謡的な部分を保ち続け1940年代にビル・モンロー(Bill Monroe)等により確立された民謡スタイルの音楽をブルーグラスと呼び、逆に様々な音楽を取り入れ大衆音楽化して、変化し続けているタイプの音楽をカントリー・ミュージックと呼ぶ。
1920年代初頭、多くのアパラチア山脈の人々がアトランタの紡織工場に働きにやってきて音楽をもたらし、アトランタの音楽シーンはカントリーの初期の歴史の重要な役割を担った。アトランタは約20年間、レコード産業の中心地、約40年間、ライヴ活動の中心地となり、1950年代にはローカル・テレビ局で最初のカントリー番組が放送された[19]。
アトランタのいくつかのレコード会社は農業労働者向けの音楽としてフィドリン・ジョン・カーソンなどの初期のアーティストを受け入れなかった[20]。1922年6月30日に収録され、1923年4月に出版されたフィドル奏者のヘンリー・ギリランド&エック・ロバートソンによる『Arkansas Traveler 』と『Turkey in the Straw 』がカントリーで最初の商業的レコーディングとされている[21][22]。1924年頃からコロムビア・レコードは15000D Old Familiar Tunesシリーズのヒルビリー・ミュージックのレコードを出版し始めた[14]。
1923年6月14日、フィドリン・ジョン・カーソンはオーケー・レコードで『Little Log Cabin in the Lane 』を収録した[23]。1924年5月、『Wreck of the Old 97 』でヴァーノン・ダルハートが全米で有名な最初のカントリー歌手となった[24][25]。B面の『Lonesome Road Blues 』もとても人気になった[26]。1924年4月、サマンサ・バンガーナーがバンジョー音楽を録音し、最初の女性カントリーミュージシャンとなった[27]。