世界恐慌の影響でレコードの売上は減少した。ラジオが娯楽としての人気が上がり、南部から北はシカゴ、西はカリフォルニアまでカントリー・ミュージックを使った「バーン・ダンス」の番組が放送された。ロイ・エイカフ
既述の通り、1925年にテネシー州ナッシュビルのWSMが『グランド・オール・オープリー』の放送を開始し、21世紀も続いている。『オープリー』の初期のスターにはアンクル・デイヴ・メイコン、ロイ・エイカフ、アフリカ系アメリカ人ハーモニカ奏者デフォード・ベイリー
などがいる。1934年当時、WSMの5万ワットのシグナルにより、全米で聴くことができることもあった[34]。多くのミュージシャンが様々な形態で演奏および収録を行なった。例えばムーン・ムリカンはウエスタン・スウィングで演奏していたが、ロカビリーでの収録も行なっていた。1947年から1949年、カントリー・クルーナーのエディ・アーノルドは8曲がトップ10にランクインした[35]。 1930年代から1940年代、1920年代から収録されてきたカウボーイ・ソングまたはウエスタン・スウィングがハリウッドで製作される映画で人気が上がった。当時人気のあったシンギング・カウボーイにはジーン・オートリー
シンギング・カウボーイおよびウエスタン・スウィング
カウボーイだけでなく、カウガールが参加する家族バンドも存在した。パッツィ・モンタナは歴史的な曲『I Want To Be a Cowboy's Sweetheart 』で女性アーティストの活動の場を広げた。これは女性にもソロとしてのキャリアを伸ばす機会が与えられる革命的な出来事となった。
グレートプレーンズ出身のボブ・ウィルズは「ホット・ストリング・バンド」のリーダーとしてとても人気があり、西部劇の映画にも出演した。ダンス・ホール音楽としてスタートした彼のカントリーとジャズをミックスしたスタイルはウエスタン・スウィングとして知られるようになった。スペイド・クーリーやテックス・ウイリアムズもとても人気があり、映画にも出演していた。ウエスタン・スウィングの人気の高さはビッグバンド・スウィング・ミュージックの人気に匹敵するものであった。 初期のカントリー・ミュージシャンにはドラムは「騒々しい」「新鮮でない」として敬遠されていたが、1935年、ウエスタン・スウィング・ビッグバンドであるテキサス・プレイボーイズのリーダーのボブ・ウィルズはドラムを取り入れた。1940年代中期、『オープリー』はプレイボーイズがドラムを使用することを受け入れなかった。1955年までにロカビリーではドラムを使用することが普通になっていたが、『オープリー』ほど保守的でない『ルイジアナ・ヘイライド』は1956年にはまれにドラムを使うことがあった。1960年代初頭までにはカントリー・バンドにドラムがないことの方が珍しくなった[37]。 1938年、ボブ・ウィルズはカントリーで初めてエレクトリック・ギターをバンドに追加した[16]。10年後の1948年、アーサー・ギター・ブギ・スミス 1939年、ジョニー・バーフィールド 第二次世界大戦終結前、『オープリー』においてロイ・エイカフにより紹介されたレスター・フラットとアール・スクラッグスにビル・モンローが参加し、「マウンテニア」・ストリング・バンドの音楽はブルーグラスと融合した。ゴスペルもカントリー・ミュージックの一部として人気があった。大戦後最大のカントリー・スターであったレッド・フォリー
楽器の変遷
ヒルビリー・ブギ
ブルーグラス、フォーク、ホワイトゴスペル
戦後、カントリー・ミュージックは商取引の場では「フォーク」、音楽産業業界では「ヒルビリー」と呼ばれた[40]。1944年、『ビルボード』誌は「ヒルビリー」を「フォーク・ソング・アンド・ブルース」と記し、1949年には「カントリー」または「カントリー・アンド・ウエスタン」と記すようになった[41][42]。
ホンキートンクハンク・ウイリアムズ
テキサス州やオクラホマ州の貧困白人の間で、ギター、ベース、ドブロまたはスティール・ギター、ドラムを使用したベーシックなアンサンブルや様々なタイプの粗野な音楽が人気となった。これらは特にテキサス州で南部のブルースと共に、ウエスタン・スウィング、メキシコや国境近くのランチェラをルーツとしたホンキートンクとして知られるようになった。ボブ・ウィルズと彼のバンドであるテキサス・プレイボーイズはこの音楽について「これを少し、あれを少し、黒人音楽を少し、白人音楽を少し…考えすぎない程度に、ウイスキーを注文できる程度にうるさい」と解説した[43]。テキサス州東部出身のアル・デクスターは『Honky Tonk Blues 』を、また7年後に『Pistol Packin' Mama 』をヒットさせた[44]。アーネスト・タブ、キティ・ウェルズ(初のメジャーな女性カントリー・ソロ歌手)、テッド・ダファン、フロイド・ティルマン、マドックス・ブラザーズ・アンド・ローズ、レフティ・フリッツェル、ハンク・ウィリアムズなど、これらの「ホンキートンク」の曲は酒場で流行り、のちに「トラディショナル」・カントリーと呼ばれるようになった。ジョージ・ジョーンズなどのホンキートンク・スターが新たに誕生する一方で、特にウィリアムズなどがチャック・ベリーやアイク・ターナーと同様にエルヴィス・プレスリーやジェリー・リー・ルイスなどのロックンロールの多くのパイオニアに多大な影響を与えた。1950年代、ウエブ・ピアスは13曲のシングルが計113週第1位を獲得し、常にチャートのトップに君臨するカントリー・アーティストとなった。約10年間で48曲がチャート入りし、うち31曲がトップ10に、さらにそのうち26曲が第4位以内に入った。 1950年代中盤にも、R&B、ジャズ、ブルース、ゴスペルといった黒人音楽との融合が行われ、ロックンロールのキング、エルヴィス・プレスリーに代表される、ロカビリー(ロックとヒルビリー
1950 - 1960年代、第3世代