カンザス
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1812年から1821年まではミズーリ準州の一部になっていた。カンザスを横切るサンタフェ・トレイルでは、1821年から1880年まで、ミズーリ州から工業製品が、現在のニューメキシコ州サンタフェからは銀と毛皮が運ばれた。この道のプレーリー地域では荷車の轍が現在も見られる。

1827年レブンワース砦が白人アメリカ人の最初の恒久的開拓地になった。1854年5月30日に制定されたカンザス・ネブラスカ法で、ネブラスカ準州カンザス準州が設立され、白人開拓者に広大な土地が開放された。この時のカンザス準州は西の大陸分水界まで伸びており、現在のコロラド州デンバーコロラドスプリングスプエブロがある地域が含まれていた。ローレンス市に対するクァントリルの襲撃。
1863年8月21日ローレンスの虐殺

ミズーリ州とアーカンソー州からはカンザスの東部境界にそって開拓者を送り出した。これらの開拓者は奴隷制度を州内に広げるために住民投票を支配しようとした。続いて州内に入ってきたのは、マサチューセッツ州など自由州からの奴隷制度廃止運動側開拓者であり、隣接するミズーリ州から奴隷制度が拡大されてくるのを止めようとした。これら開拓者が武力で衝突し、「血を流すカンザス」と呼ばれるようになる小競り合いの時代が続いた。これは南北戦争の前哨戦になった。

1861年1月29日、カンザスはアメリカ合衆国34番目の州として、奴隷を持たない自由州になった。この時点までに州内の暴力事件はほとんど沈静していた。しかし、南北戦争中の1863年8月21日ウィリアム・クァントリルが数百人の男を率いてローレンス市を襲い、市街地の大半を破壊し、200人近い人々を殺した(ローレンスの虐殺)。クァントリルは、アメリカ連合国軍からも、ミズーリ州議会が任命したゲリラ的レンジャー部隊からも厳しく批判された。クァントリルはこれら部隊への任官を申請したが、戦前の犯罪記録があったために宜も無くはねつけられた[7]

南北戦争後、多くの退役兵がカンザスに農場を造った。多くのアフリカ系アメリカ人もカンザスを奴隷制度廃止運動家「ジョン・ブラウン」の土地とみなし、ベンジャミン・"パップ"・シングルトン(英語版)のような解放奴隷に導かれて、州内に黒人社会の建設を始めた。彼らは1870年代に人種差別が激しくなりつつあった南部を離れ、エクソダスター(英語版)[注 1] と呼ばれるようになった。1873年にKansas Pacific Railwayがカンザス-コロラド間に開通した。

これと同時期にチザム・トレイル(英語版)(サンアントニオからカンザス・パシフィック鉄道(英語版)の通じているアビリーンまでの牛道)が開通してロングドライブが始まり、カンザスでも西部開拓時代が始まった。ワイルド・ビル・ヒコックはライリー砦(英語版)で副保安官、ヘイズアビリーンでは連邦保安官を務めた。1872年にはアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道ドッジシティまで開通し、カンザス・パシフィック鉄道と家畜輸送を巡る競争が始まった。ドッジシティも荒々しいカウボーイの町であり、バット・マスターソンワイアット・アープが町の法執行者として働いた。テキサス州から追われてきた牛が1年間に800万頭もドッジシティで汽車に乗せられ、東部へ運ばれた。ドッジシティは「牛の町の女王」という渾名を貰った。

カウボーイによる暴力行為に対処するためもあり、カンザス州は1881年2月19日にアルコール飲料を全て禁止する憲法修正案を採択した最初の州になった。
地理

カンザス州は北部でネブラスカ州、東部でミズーリ州、南部でオクラホマ州、及び西部でコロラド州と接している。105のに分割され、628の都市[8] がある。太平洋及び大西洋から等距離に位置している。北米の測地線の中心は1983年までオズボーン郡ミーズランチに位置していた。この地点は合衆国政府によって作成された北アメリカ地図すべての中心参照地点として使われていた。大陸48州の地理的中心はスミス郡レバノン近くに位置しており、カンザス州の地理的中心はバートン郡に位置している。

カンザス州はロッキー山脈の東手前にあるフロンティア・ストリップに位置する6つの州の1つである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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