カロリング朝
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768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された[8]。その後771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。

773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した[9]

781年にはランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。

イスラム教徒に対しては778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた(ロンスヴォーの戦い)。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。
教皇からの帝冠

教皇レオ3世800年のクリスマスにカール大帝にローマ皇帝としての帝冠を授け、西ローマ帝国の地に「ローマ皇帝」が復活した。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった[10]

教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた。司教が世俗の仕事に関わる典拠とされたのは『旧約聖書』「サムエル記」であった。サムエルは人民を裁き、人民の罪を贖うために犠牲を捧げ、戦争においては従軍し、国王に塗油の儀式を行った。一方で『新約聖書』において、パウロは「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(新共同訳、「コリントの信徒への手紙 一」9.14)と述べていた。当時の聖職者の中には、この言葉が司教が世俗の職務に関わるべきではないことを述べていると考えた者もいた。そのためカール大帝はこの問題を教会会議に諮り、司教が世俗の義務を引き受けるべきであるという決定を得た[11]。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。

またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」は、さまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を1つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。
分割詳細は「東フランク王国」、「西フランク王国」、および「中部フランク王国」を参照

広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後カールとピピンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。ヴェルダン条約によるフランク王国の分割

西フランクシャルル2世 アキテーヌガスコーニュラングドックブルゴーニュイスパニア辺境
中フランクロタール1世 ロレーヌイタリアブルゴーニュアルザスロンバルディアプロヴァンスネーデルランデンコルシカ
東フランクルートヴィヒ2世 ザクセンフランケンテューリンゲンバイエルンケルンテンシュヴァーベン

3分割

814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒ1世は帝位と王権を継承した。817年に「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒ2世にバイエルンの支配権を確認した。この時点ではロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。

しかしシャルル2世が生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、長兄であるロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒ2世がこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。

841年ロタール1世とシャルル2世、ルートヴィヒ2世はオセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分(西フランス王国中フランス王国東フランス王国)されることとなった(ヴェルダン条約)。
4王国

帝権は中フランス王国のロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ロドヴィコ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をロドヴィコ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にプロヴァンス王・シャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。

869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルル2世がロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒ2世がこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約[12]

西フランク王シャルル2世は875年のロドヴィコ2世の死後、イタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィヒ2世の死に際して、シャルル2世は東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒ2世の息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。
分裂後のカロリング朝国家

カール大帝の帝国は王家の分割相続により瓦解した。885年にはカール3世によって帝国が再統一されるが、一時的なことに過ぎず、887年には東フランク王アルヌルフによって廃位に追い込まれた。

888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。


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