カルラス・プッチダモン
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1992年のバルセロナオリンピック期間中にはガルソン作戦(スペイン語版)で傑出した働きを見せた[10]。カタルーニャ・ジャーナリスト協会のメンバーであり、『Cata… que? Catalunya vista per la premsa internacional』(外国メディアが見たカタルーニャ、1994年)[10]やコミュニケーションや新技術に関する随筆など、何冊かの著作がある。

1990年代にはヨーロッパをめぐり、新情報技術を適用させる仕事を開始した。カタルーニャ州政府に委託され、1999年にはアジェンシア・カタラナ・デ・ノティシエス(ACN)社を設立し[11]。2002年までこの機関を率いた。2002年からジローナ県議会のカルラス・パラモ議長によってカザ・ダ・クルトゥラ・ダ・ジローナ(ジローナ文化の家)の責任者に推されて2004年まで責任者を務めた。2004年にはカタロニア・トゥデイ(英語版)紙(英語紙)の最高経営責任者(CEO)としてジャーナリズムの世界に戻った[10]。2006年にはジャーナリズムの世界を離れ、カタルーニャ州議会議員としての政治界の活動に専念するようになった[11]
政治家2015年のプッチダモン

1975年にフランコ体制が終わって民主化の時代を迎えると、1980年には「カタルーニャの独立」を目標に政治活動に参画し始め、この年には初めて行われたカタルーニャ民主集中(CDC)のジョルディ・プジョルのミーティングに出席した[11]。その後にはカタルーニャ民族主義青年団(スペイン語版)ジローナ県支部の創設メンバーとなっている[10]

2006年にはCDCを内包する政党連合集中と統一(CiU)の一員として、ジローナ県選挙区からカタルーニャ州議会選挙に出馬して当選し、カタルーニャ州議会議員となった[17]
ジローナ市長

2007年にはジローナ市議会議員選挙にCiUの筆頭候補(市長候補)として出馬したが、CiUは市長の座を得られなかった。2011年5月のジローナ市議会議員選挙にはやはりCiUの筆頭候補として出馬し、7月1日にはカタルーニャ社会党(PSC)のアンナ・パガンズ(スペイン語版)の後を継いでジローナ市長に就任。初選挙の1979年から32年間はPSCがジローナ市政に君臨し続けており、民主化後初めてPSC以外の市政が誕生した[18][19]。保健委員会で演説した後の7月15日には、その部門を縮小することに抗議する200人の集団に攻撃された[20]。2015年7月にはジュゼップ・マリア・ビラ・ダバダルの座を引き継いで、(カタルーニャ)独立のための自治体協会(スペイン語版)(AMI)の会長に就任した[21]
カタルーニャ州首相

CiUを構成するCDCとカタルーニャ民主連合(UDC)の不和が原因で、2015年6月には政党連合CiUが解散。CDCはカタルーニャ独立賛成派のカタルーニャ共和主義左翼(ERC)らとともに、選挙連合ジュンツ・パル・シ(JxSI)[22]を結成して9月の2015年カタルーニャ自治州議会選挙に臨んだ。プッチダモンはジローナ県選挙区の候補者リスト第3位で出馬し、2006年・2010年・2012年に続く4選を果たした[23][24]。62議席を獲得したジュンツ・パル・シはこの州議会選挙で第一党となったが、過半数の68議席獲得には至らなかった。ジュンツ・パル・シの首相候補は現職のアルトゥール・マスだったが、ジュンツ・パル・シは同じく独立賛成派の人民統一候補(CUP)と州首相をめぐって対立し、3か月以上も州議会で州首相が指名されない混乱状態が続いた[25]

一時は再選挙の公算が高まったとされたが[26]、再選挙を行わずに首相指名ができる期限が目前に迫った2016年1月9日、マスはジュンツ・パル・シの首相候補にプッチダモンを提案することを発表した[27][28][29][30]。1月10日の州議会で行われた首相指名投票では、賛成70票(JxSI、CUP)、反対63票(C's、PSC、CSQEPなど)、棄権2票(CUP)で賛成が過半数に達したため、プッチダモンが第130代カタルーニャ州首相(英語版)に選出された[31][32][33]。首相指名前の演説では独立国家建国の過程を推し進めることを語り[34]、18か月で「カタルーニャ共和国」を建国する見通しを示した[35][30]。カタルーニャが独立した暁には、独自の憲法制定、中央銀行の創設、徴税機能の拡充、安全保障と防衛メカニズムの整備を進めるとしている[36]。首相に就任した経緯から「偶発的な首相」と呼ばれ、また批判的な勢力からは、たまたま首相の座が転がり込んできた田舎町の市長と揶揄する声もあった[37]
2017年カタルーニャ独立住民投票

2017年6月9日、プッチダモンは独立を問う住民投票を10月1日に実施すると発表し、賛成多数となった場合は48時間以内に独立を宣言すると発表した[38]。この投票をめぐる混乱は1975年の民主化以来、スペイン最大の騒乱となった[39]。中央政府は徹底して住民投票の阻止に動き、10月1日の投票当日は自らもヘリコプターによる追跡をかいくぐってなんとか投票を済ませるなど、住民投票は困難を極めたが予定通り実施された[37]。その結果反対派が棄権したこともあり投票率は4割にとどまったが賛成が9割を超えたことから独立の資格を得たと宣言。同国憲法155条に基づく自治権停止をちらつかせる中央政府との対立が深まった[40]。10月10日の州議会本会議でプッチダモンはカタルーニャ独立宣言に署名したものの即時凍結し、中央政府との対話も呼びかけた[39]。しかし両者の溝は埋まらず、独立宣言は10月27日に州議会にて賛成多数で承認された[41]。これを受け10月28日、中央政府はプッチダモンを州首相から解任した[42]
州首相解任後のベルギー脱出

プッチダモンは中央政府より国家反逆罪や扇動罪などで起訴され、同時に解任された州政府幹部らとともにベルギーに脱出した[43]ものの亡命は否定し、中央政府による首相解任も受け入れないと表明。一方で12月21日に行われる州議会選挙の結果は受け入れるとも表明した[44]


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