ミランダは作曲家ジョズエ・デ・バロス
に紹介・見出され、彼は1929年ドイツのレコーディング会社ブルンスウィックで彼女の最初のアルバムをレコーディング・プロモートした。1930年、彼女はブラジルの貴重な歌手として知られるようになり、1933年ラジオ・メイリング・ベイガと2年契約を結び、ブラジルのラジオ業界史における初の契約歌手となった。1934年、彼女はブエノスアイレスのラジオ・ベルグラノのゲスト出演者として招かれた[6]。最終的に、ミランダはRCAレコードとのレコーディング契約にサインした。ニューヨークのブロードウェーでのショーへの招待前、彼女は10年間サンバ歌手としての経歴を積み重ねた。当時の他の人気歌手と同様に、ミランダは、ブラジルの記録映画“ア・ボズ・ド・カルナバル”(1933年)にてスクリーン・デビューを果たした。二年後“アロ、アロ、ブラジル”というタイトルの初の長編映画出演となった。しかし、映画好きの心に彼女が植えつけられるようになったのは1935年公開の映画“アステュダンテス”であった。1936年公開の映画“アロ、アロ、カルナバル”で、有名な“カントラス・ド・レディオ”を姉オーロラと初めて演じた[6]。リオでとある彼女の舞台を見た劇場のオーナーであるリー・シュバートは、ミランダと彼女のバンドバンド・ダ・ルア
との契約にサインした。1939年、ミランダは遠洋定期船SSウルグアイにてブラジルから出航し、5月18日にニューヨークに到着した [7]。彼女は、1939年6月19日“ストリート・オブ・パリ”にてアボットとコステロの相手役を演じアメリカでのステージ・デビューを果たした。彼女のパートは少なかった(彼女は4語を話すのみ)が、ミランダは良好な評価を受け、メディアの寵児となった[3][8]。彼女の名声は急速に伸び、到着直後にホワイトハウス晩餐会でフランクリン・D・ルーズベルト大統領に対し正式に公演した[6]。彼女は、ラテンアメリカとヨーロッパとの繋がりを強化するためのルーズベルト大統領の善隣政策の一部として、米国政府が奨励していた。こう云った方策がアメリカ国民の受けが良いと考えられていたためである。1940年、20世紀フォックスは『遥かなるアルゼンチン』(ドン・アメチーとベティ・グレイブル主演)の出演1回分の契約を彼女と結んだ。彼女は自身の上演に対し良好な評価を得、フォックスは彼女との長期映画契約を結んだ[9]。アメリカ合衆国でミランダの人気が上昇し続ける一方、彼女はブラジル人の支持を失い始めた。1940年7月10日、彼女はブラジルに帰国しファンの声援で歓迎されたが、彼女の到着直後、ブラジルのプレスはアメリカの商業主義に屈したミランダを非難し、ブラジルにとってマイナスのイメージを投げ掛け始めた。