(旗)(紋章)
国の標語: Quis contra nos?(ラテン語)
誰が我々に反対する?
カルナーロ=イタリア執政府の位置
公用語イタリア語
首都フィウーメ
司令官
1919年9月12日 - 1920年12月30日ガブリエーレ・ダンヌンツィオ
内閣首班
1920年1月11日 - 1920年12月30日アルチェステ・デ・アンブリス
面積
675km²
変遷
イタリアへの編入要求決議1918年10月30日
ダンヌンツィオらによる占領1919年9月12日
カルナーロ憲章制定1920年9月8日
ラパッロ条約成立1920年11月12日
イタリア王国軍による占領1920年12月30日
通貨イタリア・リラ、オーストリア=ハンガリー・クローネ、ユーゴスラビア・ディナールも通用した
現在 クロアチア
カルナーロ=イタリア執政府(カルナーロ=イタリアしっせいふ、イタリア語: Reggenza Italiana del Carnaro)は、ガブリエーレ・ダンヌンツィオらのグループがフィウーメ(現リエカ)を占拠して建国した国家である。カルナーロはフィウーメが面するクヴァルネル湾のイタリア語名。 フィウーメは当時オーストリア=ハンガリー帝国領であったが、イタリア系住民が多数居住しており、イタリア王国はいわゆる『未回収のイタリア』の一部と考えており、第一次世界大戦への参戦動機の一つとなった。1918年、オーストリア=ハンガリー帝国は連合国との休戦を行うこととなり、フィウーメはフランス軍とイタリア軍の占領下におかれた。 10月30日、フィウーメのイタリア系組織「イタリア=フィウーメ民族会議」がフィウーメのイタリアによる併合を宣言したが、連合国には影響を及ぼさなかった。1919年1月から始まったパリ講和会議では、イタリアの要求する『未回収のイタリア』の獲得はほとんど達成されず、フィウーメもセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(ユーゴスラビア王国)への編入が決まった。このことはイタリアの官民にとって不服であり、6月下旬からはフィウーメを占領していたフランス軍とイタリア軍の間で衝突が発生した。 これをみた連合国調査委員会は、駐留イタリア軍の大幅な削減を指令するが、退去するイタリア軍兵士の間で、愛国派の詩人であり、「フィウーメか、死か!(O Fiume o morte!)」と唱え、「骨抜きにされた勝利 (Vittoria Mutilata)」を批判するダンヌンツィオに対する期待感が高まった。 9月11日、ダンヌンツィオはロンキ・デイ・レジョナーリに集まった義勇兵とともに、フィウーメを目指して行進を開始した。翌12日、2600人にふくらんだ義勇兵はフィウーメに入城し、連合国軍を追い出した[1](フィウーメの占拠
背景
ロンキ進軍とフィウーメ占拠
この間連合国はアメリカ主導で調停案を作成し、20万人のユーゴスラビア人と4万人のイタリア人が含まれる緩衝国家としての「フィウーメ自由国家」の樹立を主眼とする覚書を10月27日にイタリア王国政府に提示した。イタリア王国政府は、ロンドン条約の境界線に基づく自由フィウーメ国家の成立を認めるが、イタリア人の権利とフィウーメの自治権を強化する反論を1920年1月6日に提示した。その後英仏とイタリアは協議して合意案を作成したが、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国がこの合意案を拒否したため、事態は暗礁に乗り上げた[3]。
一方フィウーメでは、イタリア政府の和解案の是非を問う住民投票が12月に開催され、圧倒的多数で採択された。しかしダンヌンツィオはこの和解案を拒絶し、独裁色を強める一方で新たな計画を模索することになる[4]。、 1920年1月11日、ダンヌンツィオは高名なサンディカリストで、イタリア下院議員のアルチェステ・デ・アンブリス
カルナーロ憲章