カルタゴ
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「カルタゴを建設するディド」(ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画)

カルタゴ(ラテン語: Carth?g? または Karth?g?[注釈 1] カルターゴー、アラビア語: ?????‎ Qar??j)は、紀元前にアフリカ大陸の北岸を中心に地中海貿易で栄えた、フェニキア人による国家。中心となる都市(首都)はチュニス湖東岸にあった。地理的には、現在のチュニジア共和国の北側を中心とした。カルタゴは造船技術や水運や海上貿易のノウハウに優れ、地中海の貿易によって経済力や軍事力を誇り、地中海の西部の海上交易を支配した。文化の中心地としても栄え、アフリカ北岸の広域やイベリア半島の南側を領土として支配した。地中海南岸に本拠地を持つ大国であり、地中海北側に本拠地を持つローマと競い合った。
概要

カルタゴは元々はベルベル人が住んでいた。紀元前9世紀ころに、地中海東岸のティルスを本拠地としていたフェニキア人によって、地中海内の植民都市の一つとして建設された。本国のティルスがアッシリアに支配されてからは、フェニキア人にとってはカルタゴのほうが本拠地となり、ここを拠点として西地中海の貿易を支配してゆくことになった。その後、地中海北側から突き出たイタリア半島を本拠地に台頭してきたローマと、地中海の覇権を競うライバル関係となり敵対し、地中海覇権の鍵を握る中央部の島々(シチリア島など)の支配をめぐってローマと軍事的に激突。カルタゴとローマの間の一連の戦争は、(カルタゴは、当時、ローマ人からは「ポエニ」と呼ばれていたので)「ポエニ戦争」と呼ばれている(紀元前264年?紀元前146年)。造船技術に非常に優れ、海軍力に優れたカルタゴに対して、ローマは陸上の歩兵戦では優れていたが海戦は苦手とし、両国の軍隊は対照的であった。カルタゴからは、ハミルカル・バルカハンニバル・バルカなど、幾人もの卓越した軍事司令官が輩出され、ローマの本拠地を攻撃する目的で「アルプス越え」を行って北側から陸伝いに攻撃を行い、歴史に残るような大勝も成し遂げた。だがローマの本拠地を支配することには成功せず、強大化しつづけるローマに対して次第に劣勢になり、ついには本拠地の城塞都市もローマの大軍に包囲され、それでも3重の強固な城壁に護られた城塞都市のおかげで何年にも渡り籠城戦に耐えたが、ついにはローマ軍に城壁を乗り越えられ都市を全て焼き払われ、もともと50万人はいた カルタゴ人は5万人になり、残ったカルタゴ人も逃亡したり奴隷になるなどし、カルタゴは滅亡した。だが紀元前45年にカエサルによって再建され、ローマ帝国の都市、ローマ帝国内屈指の大都市として繁栄した。

現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市としてチュニジアの首都圏の一部を成す。

「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Qart-?ada?t=「新しい町」)に由来するとされる。
地理

カルタゴが建設された地形は、水深が浅く、錨を下ろしやすい入江があり、突き出した岬がある。これはフェニキアが港の建設をする条件に沿っている。カルタゴは地中海の東西のほぼ中央にあり、前8世紀頃にはイベリア半島のガデスからフェニキア本土のテュロス等へと貴金属を運ぶ航路の中間にあった。この位置が、カルタゴが繁栄する一因となった[1]

フェニキア人の地中海の航路は反時計回りであり、イベリア半島から東へ向かう船は北アフリカの海岸沿いに進み、テュロスなどフェニキア本土から西に向かう船はキプロス、ギリシア、シチリア、イビサなどの島々を経由した[2]
歴史
カルタゴ建国伝説

カルタゴの建国に関して確実なのは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したこと、ティルスと同じメルカルト  (Melqart)  が町の守護神であったことなどである。カルタゴは同じフェニキア系都市で先に入植されたウティカやガデスの寄港地として開かれたと考えられている。なお、カルタゴ遺跡からの出土品では紀元前8世紀後半のものが最も古い。

ティルスの女王ディードーが兄ピュグマリオーン  (Pygmalion of Tyre)  から逃れてカルタゴを建設したとされる。ディードーは主神メルカルトの神官の妻だったが、ピュグマリーオンがディードーの夫を殺害したためにテュロスを去った。ローマの歴史家グナエウス・ポンペイウス・トログスの『ピリッポス史』によれば、岬に上陸したディードーは、1頭の牛の皮で覆うだけの土地を求めた。岬の住人が承知をすると、細く切った皮で紐を作って土地を囲い、丘全体を手に入れる。この丘はギリシア語で「皮」を意味するビュルサと呼ばれるようになった[3]。ビュルサには近隣の人々が集まるようになり、同じくフェニキア系の都市であるウティカから使者が訪れ、都市の建設が始まる。皮で囲まれた土地については、地代としてアフリカ人へ貢租を支払うことになり、前5世紀まで支払いが続いたとされる[4]。古代ローマの詩人ウェルギリウスは、上記とは異なるディードーの伝説を『アエネイス』で書いている。

ポンペイウス・トログスによるディードーの伝説に従えば、カルタゴはテュロスによる正規の植民都市ではなく、亡命者の土地にあたる。また、神官の妻だったディードーは宗教的にはピュグマリーオンよりも正統に属しており、メルカルト信仰の中心がテュロスからカルタゴへ移ったことも意味する[5]。ビュルサの丘は、現在のサン・ルイの丘にあたる[6]古代ギリシアやローマの歴史家らの史料ではトロイ戦争紀元前12世紀頃)前、紀元前820年頃や紀元前814年頃にそれぞれ建国されたという記述があるがいずれも裏付はない。ちなみにチュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を行っており、「紀元前814年」が一般的にカルタゴ建国年と見なされている。
カルタゴ創成期

地中海に面するカルタゴの初期は、農耕を営む者と海で働く者との長い闘争の歴史であった。都市は、主に交易で成り立っていたため、海運の有力者たちが統治権を握っていた。紀元前6世紀の間、カルタゴは西地中海の覇者となりつつあった。

商人や探検家たちは、広大な通商路を開拓し、そこを通って富や人が行き来した。紀元前5世紀前半、海洋探検家の航海者ハンノは4回に渡る遠征を行い、「ヘラクレスの柱」と呼ばれたジブラルタル海峡を越えて、北アフリカ沿岸のシエラレオネにまで辿りついたと推測されている。第1回の航海は3万人で出航し、6つの植民都市を建設した「ハンノの航海」として知られている[7]。その後、カルタゴは、マルカスという指導者のもと、アフリカ内陸と沿岸一帯に領土を拡大した。

紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。カルタゴは、フェニキア人の古代都市や古代リビュアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。地中海においては、サルデーニャ島マルタ島バレアレス諸島を支配。イベリア半島に植民都市を建設した。
シケリア戦争詳細は「シケリア戦争」を参照
第一次シケリア戦争

カルタゴは海賊や他国が恐れる強力な海軍力を有していた。カルタゴの進出と覇権の拡大は、地中海中央部で確固たる勢力をもつギリシアとの対立を増大させた。カルタゴの玄関口にあたるシケリア(シチリア島)が、戦争の舞台となった。ギリシアやフェニキアは、以前よりこの大きな島の重要性を認識しており、海岸線に沿って多くの植民都市や交易拠点を造っていた。

紀元前540年頃にはシチリア西半分の領有権を巡り、エトルリア人と組んで、ギリシアおよびサルデーニャ人とアレリア沖(コルシカ)で海戦を行い勝利を収めたことが碑文に残されている。また、それ以外にもギリシアやシチリアとは長らく係争が絶えなかったとされる。

紀元前480年、カルタゴが大規模な軍事行動を開始した。事の発端は、ギリシアに支援されたシュラクサイ(シラクサ)の僭主ゲロンが、島を統一しようとしたことに始まる。この明白な脅威に対して、カルタゴはアケメネス朝と連携をとりながら、ギリシアとの戦争に踏み切った。ハミルカル将軍のもと、三十万人の軍隊が集められたといわれているが、この数字は大軍を示しているだけで実数ではないと考えられる。

しかし、シチリア島に向かう途中、悪天候に見舞われ、多数の人員を失った。その後、現在のパレルモにあたるパノルムスに上陸したが、ハミルカルは、第1次ヒメラの戦い[注釈 2]でゲロンに大敗してしまった。ハミルカルは、戦闘の最中に戦死したか、名誉の自決を遂げたと伝えられている。


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