カリーニングラード
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コメルサントの雑誌「The Firm's Secret」では2012年、2013年、2014年にロシアで最高の都市とされ[6]、「フォーブス」では2013年にロシアで最もビジネスに適した都市とされ[7]、2019年にはMinstroyが発表した都市環境品質指数で5位にランクインしている[8]。カリーニングラードは過去20年間、ロシア国内の主要な移住先となっており[9]2018 FIFA ワールド カップの開催都市の1つでもある。
気候

年間平均気温:7.6℃

真夏の気温:16?30℃

真冬の気温:4?-14℃

1月・2月の平均気温:-4℃

7月・8月の平均気温:17℃


年間降水量:804ミリメートル

多くのロシアの都市に比べ、海洋性に近い気候で、夏はそれほど暑くなく、冬も極端に寒くはならない。降水量は年間を通して、ほぼ均等。30℃(86.0F)を超えることはそれほど多くないが、最高気温は1992年8月10日に36.5℃(97.7F)を記録している。7月としての最高気温は1994年7月30日に記録された36.3℃(97.3F)。最低気温は1956年2月に-33.3℃(-27.9F)、1月としては同年に-32.5℃(-26.5F)を記録している。

ケッペンの気候区分では、西岸海洋性気候(Cfb)に属する。

カリーニングラード(1991?2020年、極値1848年- )の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)12.7
(54.9)16.9
(62.4)23.0
(73.4)28.5
(83.3)30.6
(87.1)34.0
(93.2)36.3
(97.3)36.5
(97.7)33.8
(92.8)26.4
(79.5)19.4
(66.9)13.3
(55.9)36.5
(97.7)
平均最高気温 °C (°F)1.1
(34)2.1
(35.8)6.1
(43)13.1
(55.6)18.2
(64.8)21.3
(70.3)23.5
(74.3)23.3
(73.9)18.4
(65.1)12.2
(54)6.2
(43.2)2.6
(36.7)12.3
(54.1)
日平均気温 °C (°F)?1.2
(29.8)?0.6
(30.9)2.4
(36.3)7.9
(46.2)12.7
(54.9)16.1
(61)18.5
(65.3)18.1
(64.6)13.5
(56.3)8.4
(47.1)3.9
(39)0.4
(32.7)8.3
(46.9)
平均最低気温 °C (°F)?3.5
(25.7)?3.0
(26.6)?0.8
(30.6)3.4
(38.1)7.5
(45.5)11.3
(52.3)13.9
(57)13.3
(55.9)9.4
(48.9)5.2
(41.4)1.7
(35.1)?1.8
(28.8)4.7
(40.5)
最低気温記録 °C (°F)?32.5
(?26.5)?33.3
(?27.9)?21.7
(?7.1)?5.8
(21.6)?3.1
(26.4)0.7
(33.3)4.5
(40.1)1.6
(34.9)?2.0
(28.4)?11.2
(11.8)?18.7
(?1.7)?25.6
(?14.1)?33.3
(?27.9)
降水量 mm (inch)68
(2.68)54
(2.13)49
(1.93)38
(1.5)52
(2.05)69
(2.72)91
(3.58)91
(3.58)73
(2.87)86
(3.39)76
(2.99)69
(2.72)816
(32.13)
平均降雨日数141314141416151617181816185
平均降雪日数15151030.10000171364
湿度85837872717475778183868779
平均月間日照時間35611201712532642572281589638261,707
出典1:Pogoda.ru.net[10]
出典2:NOAA (sun 1961?1990)[11]

歴史ドイツ帝国の地図。最東端がケーニヒスベルクを州都とする東プロイセン
ケーニヒスベルクとしての歴史詳細は「ケーニヒスベルク (プロイセン)」を参照

現在カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルクは、1255年ドイツ騎士団によって建設され、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となった。街はポーランドとリトアニアを流れるプレーゲル川(現・プレゴリャ川)の河口部に位置し、中州であるクナイプホーフを中心に広がり、プレーゲル川流域の物産を集めてバルト海沿岸の諸都市と交易し繁栄した。ところが住民はポーランド王国を支持してドイツ騎士団と対立、1410年タンネンベルクの戦いの結果第一次トルンの和約が交わされ、ケーニヒスベルクをはじめとしたドイツ騎士団領はすべてポーランド王国の従属国となる。その後ドイツ騎士団による専制に反発したケーニヒスベルク等の商業都市がプロイセン連合を結成して騎士団と対立してポーランド王国の庇護を求め、1466年第二次トルンの和約によりケーニヒスベルクはポーランド王の直接の所有物となり、住民による自治権を与えられた。ポーランドの支配が及んでいた17世紀中頃までは、ポーランド語の「クルレビエツ」(ポーランド語: Krolewiec)という名前でも知られていた[12]19世紀末頃のケーニヒスベルク城

1525年にドイツ騎士団の総長だったホーエンツォレルン家アルブレヒトが修道会国家を世俗化させてプロシア公領を東プロイセンに成立させケーニヒスベルクはその首都となった。公国の血が絶えると1618年より同族であるブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家が飛び地となる公国を同時に治めることになった。1660年のオリヴァ協定でポーランド王国がプロシア公領に対する宗主権を放棄して公領はポーランドから独立、プロイセン公国となり、1466年より194年の間ポーランド王が保障した自治権によって大いに繁栄していたケーニヒスベルクはその自治権を失ってプロイセン公国に隷属することになった。

1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国の外にあたるケーニヒスベルクで王に即位、フリードリヒ1世となりプロイセン王国がこの街で誕生した。


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