カリャリ
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ヴァンダル族支配の後に立ち替わって、東ローマ帝国が台頭し、カリャリは判事(giudicato)が支配する独立王国の首都となった。しかし、外部支配からの自治時代に関するいくつかの痕跡があるが、市は荒廃してしまった。海からのムーア人海賊による攻撃にさらされすぎたためであった。明らかに、多くの住民がカリャリを離れ、カリャリ西のサンタ・ジッラ湿地に近接する一帯にサンタ・イジアという名の新たな定住地をつくったが、ここは海から遠かった。カリャリのジュディカーティは、カンピダーノ平野の広域からなり、スルキスとオリアストラ山岳地帯の鉱物資源があった。その他に自治権を持つジュディカーティは、北西のログドーロ、北東のガッルーラアルボレアであった。
11世紀

11世紀の間、ピサ共和国が南東のスルキスをあらかじめ攻略し、カリャリのジュディカーティを征服して町そのものを再建した。ピサは中世に地中海の覇権を争った4つある海洋共和国の一つであった。ピサとジェノヴァ共和国はサルデーニャ支配を熱望した。それはイタリア本土と北アフリカ間の通商路を押さえる完璧な軍事的要所であったからだった。

防衛施設のいくつかは、今もカリャリのカステッロ地区を取り巻いている。これらに含まれるのでよく知られているのは、ピサによって建設された白い石灰岩の2本の塔で、ジョヴァンニ・カプラによって設計された(原型は、地区と往来できる3つの門を守る3本の塔だった)。 カステッロ地区と共に、カリャリはマリーナ地区(港湾を含む)、スタンパチェ地区、ヴィッラノーヴァ地区からなる。マリーナ地区とスタンパチェ地区は城壁によって守られていた。ヴィッラノーヴァ地区は主として農民が住んでいたため、城壁はなかった。

1089年、カリャリの判事であったコンスタンティーノ・トルキトーリオは、『カリャリ判事およびカリャリ王』(rex et iudex Caralitanus)を名乗った。ローマ時代の円形劇場ラルゴ・カルロ・フェリーチェ
14世紀

14世紀、アラゴン王国がピサとの戦いの後にカリャリを征服した。そしてサルデーニャ全土征服の計画を進めた。サルデーニャがついにアラゴン支配下に入ったとき、カリャリ(スペイン語及びカタルーニャ語ではCaller)はサルデーニャ副王国の行政首都とされ、後にはスペイン帝国支配下に入った。スペイン支配に大勢が同調したことが、カリャリとサルデーニャ島の衰退を招いた。
18世紀

1720年、オーストリア・ハプスブルク家の事実上の支配後、カリャリとサルデーニャはサヴォイア家のものとなった。サルデーニャの支配者として、サヴォイア家はサルデーニャ王の称号を使用した。サルデーニャ王国は、サヴォワニースピエモンテが含まれていた。王国の首都は名目上カリャリとされたが、実際にはその国名にもかかわらず、サヴォイア家の本拠地である本土側のトリノに置かれた。

18世紀終盤のフランス革命以後、フランスは地中海の要所であるカリャリを征服しようとした。フランス軍はポエットの海岸に上陸し、カリャリへ進軍した。しかしサルデーニャ軍がフランス軍を退け、革命軍に対して王国の防衛を決定づけた。カリャリの人々は、町をフランスから守った見返りとしてサヴォイア家からいくらかの権利を獲得しようと期待した。例えば、カリャリの貴族は王国議会のサルデーニャ代表議員の地位を望んだ。王家がそれらの要求全てを拒むと、カリャリ住民はサヴォイア家に対して蜂起し、ピエモンテからやってきた王家を代表する官僚や出身者を追放した。この暴動は、4月最後の週にディエ・デ・サ・サルディーニャ("Die de sa Sardigna"、サルデーニャの日)としてカリャリで祝われてきた。しかし、サヴォイア家は事実上の自治支配後にカリャリ支配を奪還した。 ヴィッラノーヴァ地区のパノラマ
近代・現代

1870年代から、イタリア統一運動と共に、市は急速な成長の一世紀を経験した。多くの目をひく建築物は、市長オットーネ・バカレッダ時代の19世紀終わりから建てられた。これらの多くは、花の装飾を特徴とする伝統的なサルデーニャ風と同様に、アール・ヌーヴォーからの影響が組み合わされていた。例として、白大理石を用いた、港近くの市役所建物がある。オットーネ・バカレッダは、20世紀初頭に起きた労働ストライキを暴力で制圧したことでも有名である。カリャリ港東区

第二次世界大戦中の1943年2月、カリャリは連合国側から激しい爆撃を受けた。空爆と、荒れ果てた町の惨状から逃れるため、多くの住民がカリャリを離れ、田舎や人里離れた山里へ移った。そこでは友人や親戚と狭い家に肩を寄せ合って暮らした。この町からの逃避行は、スフォッラメント("sfollamento"、荒廃)として知られる。

1943年9月、連合国側とイタリアの講和が行われた後、ドイツ国防軍がカリャリとサルデーニャ島を支配下に置いた。だがすぐに、イタリア本土で彼らの状況が増強されるため、平和理に退却した。アメリカ軍がカリャリを監督下に置いた。カリャリの位置が、地中海での戦況を左右する要所であったためだった。多くの空港がカリャリ近郊につくられた(エルマスモンセッラートデチモマンヌ)。ここから飛行機が北アメリカ、イタリア本土、シチリア島へ向けて飛ぶことができた。

戦後、カリャリ人口は減少した反動で増加に転じ、多くのアパートが新たな住宅地に建てられた。これらはしばしば貧弱な計画でつくられていった。 フォンサルダ地区のパノラマ

1979年9月14日イタリア国内航空のDC-9旅客機が、カリャリ空港南約25kmの山中に墜落。乗員・乗客31人が死亡[6]
未来への計画

近年の大規模都市発展が、カリャリで始まった。新設されるベティーレ美術館(ヌラーゲ文化と現代美術を展示する)を含む新たな計画が、プリツカー賞受賞者ザハ・ハディッドによって計画された。美術館はサンテリア遊歩道において建てられる予定である。別の既に着手された計画は、カリャリ・メトロ(地下鉄)である。初の路線は既に、レプッブリカ広場と、カリャリ郊外コムーネの一つモンセッラート間を走行している。この路線は大学キャンパスへとすぐつながる予定である。郊外コムーネ全てと空港とつながるその他の路線はすぐに着手された。旧カリャリ港からサンテリアへの遊歩道は、全体的に修復される予定である。ヴィア・ローマにある旧カリャリ港は、現在観光とクルーズ船用港としてだけ利用されている(クルーズ船ターミナルは既に閉鎖された)。旧カリャリ港はフェリーボートについても閉鎖し、ポルト・カナーレにある新カリャリ港へ機能を移す予定である。

サンテリア地区全体が変えられ、古く傷んだアパート建物は廃棄され新たな地区がレム・コールハースによって設計されたものに取ってかわる。スタジアムも、25,000の観客席を持つ、コンサートやイベントに適した新スタジアムに建て替えられる。今は古い製塩プラントがある場所に水族館をつくるのと同じく、コンサート用の20,000席もつ大劇場が遊歩道沿いに建つ。その他に、サンタ・ジッラ広場の池近くの新地区、ポエット海岸にある豪華なビューティー・センター(旧マリーナ病院跡地)、パウロ・メンデス・ダ・ロシャ設計の大学新キャンパス、劇場と噴水を備えた大公園パルコ・デッラ・ムジカの建設計画が含まれる。多くは2010年から2011年にかけ完成する予定である。
社会
人口統計

2007年、カリャリ人口は158,041人で、そのうち男性は46.7%、女性は53.3%であった。18歳未満の若年層は13.36%、年金生活者は21.87%であった(イタリア平均は、若年層18.06%、年金生活者19.94%)。カリャリ市民の平均年齢は46歳であった(イタリア全国平均は42歳)。2002年から2007年までの5年間で、カリャリ人口は3%減少した(反対にイタリア平均は3.56%上昇) ⇒[1]。現在のカリャリの出生率は、1000人に対して6人である(イタリア平均は9.45人)。この傾向は、カリャリ都市圏と郊外コムーネでは反比例する(子供を持つ若い世帯が移っていくため)。

2006年の調査では、カリャリ人口の98.09%がイタリア人であった。最大の移民グループは東アジア出身者の0.72%である。その他ヨーロッパ諸国出身者は0.50%である。信仰で優勢なのはカトリック教会である。
経済・産業

カリャリはイタリア全土のうちで最大級の魚市場を持つコムーネの一つである。広大な売り場が一般・卸両方に開放されている。カリャリはサルデーニャ最大の商業・工業中心地であり、イタリアの大企業の工場が域内にある(電気通信会社ティスカリはカリャリに本社をおく)。また、地中海有数のコンテナ・ターミナルがカリャリ港にある。

観光も、主要経済収入の一つとなっている。
宗教

カリャリ大司教座がある。
領事館

カリャリには、以下の国々の領事館が開設されている。

ベルギー

 デンマーク

 エストニア

 フィンランド

フランス


ドイツ

マルタ

モナコ

 ノルウェー

オランダ


スペイン

 スウェーデン

スイス

文化・観光
言語

カリャリ県では、サルデーニャ語カンピダネーゼ方言が話される。


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