オスマン朝は当初、カリフ位の権威に頼らずとも実力をもってスンナ派イスラム世界の盟主として振舞うことができた。しかし、18世紀の末頃から19世紀にかけて、ロシアなどの周辺諸国に対する軍事的劣勢が明らかになると、オスマン帝国内外のスンナ派ムスリムに影響を及ぼすために、カリフの権威が必要とされるようになった。
そこで、16世紀初頭にオスマン帝国のスルタンはアッバース家最後のカリフからカリフ権の禅譲を受け、スルタンとカリフを兼ね備えた君主であるという伝説が生まれた(スルタン=カリフ制)。 オスマン帝国の滅亡によって、オスマン家のスルタン=カリフは1922年に退位し、スルタン制が廃止された。インドや中央アジアのムスリムやクルド人は、精神的支柱としてのカリフ制の存続を強く望んでいたが、ムスタファ・ケマル・アタテュルクによって1924年にカリフ制も廃止
最後のカリフ
同年1924年、預言者ムハンマドに連なるハーシム家出身であったヒジャーズ王国の王であるフサイン・イブン・アリーがカリフを名乗ったが、オスマン帝国最後の皇帝メフメト6世[1]以外に目立った支持者はなくイスラム世界で広く承認されることはなかった。
その後はユースフ・アル=カラダーウィー[2]ら一部のイスラム主義者によりカリフ制の復活が唱えられたが、イスラム社会からは認められていない。現在、カリフ制統一国家樹立を目指す汎イスラーム主義的国際政治組織としてヒズブ・タフリールが存在する。イスラーム改革派「アフマディーヤ」は、カリフ制をとっている。
2014年には、イラク、シリア両国にまたがる地域を掌握した過激派組織ISILが、支配地域における国家としての独立と指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディーのカリフ即位を宣言した。これに対してはカラダーウィーがカリフ即位宣言は無効であると表明する[2]など、この即位についてイスラム社会を含め国際社会で承認する動きはなく、バグダーディー自身も2019年10月に米軍によって殺害された。バグダーディーの死後、アブイブラヒム・ハシミが第2代カリフとなったが、これも国際社会から承認されることはなく、2022年2月に米軍に殺害された。ISILはその後もカリフが死ぬ度に後継となるカリフを発表しているが、これも殆ど承認されていないのが現状である。
脚注[脚注の使い方]
出典^ Teitelbaum, Joshua (2001). The Rise and Fall of the Hashimite Kingdom of Arabia, p.240, London: C. Hurst & Co. Publishers. ISBN 978-1-85065-460-5
^ a b 村上大介 (2014年7月8日). “イスラム国「カリフ制宣言」 反発浴びつつアラブの春の幻に代わる恐れも”
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