カラチ
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したがって、カラチからの税収は連邦歳入庁の集める税金全体の53.38%を占め、そのうち53.33%が関税および輸入売上税である[21]。(ただしカラチからの税収には、カラチやハイデラバード、スックル、クエッタ、シンド州およびバローチスターン州をカバーするカラチ地方税務署および大規模税ユニットからの税収を含む)[21]。カラチの住民からの税収はおよそ25%程度である。

パキスタンの製造業のうちカラチの占める割合はおおよそ30%である[22]。シンド州の域内総生産(GDP)のかなりの部分はカラチに負うものである[23][24]。シンド州のGDPはパキスタン全体の28%から30%を占め[23][24][25][26]、カラチのGDPはパキスタンのおよそ20%を占めている[27][28]プライスウォーターハウスクーパースは、2008年のカラチのGDPを780億ドルと推定した[29]。2025年には年平均5.5%の成長率で1930億ドルになると推定している[29]。なお、パキスタンではカラチに次ぐ大都市とされるラホールおよびファイサラーバードの2008年のGDPはそれぞれ400億ドルと140億ドルとなっている[29]

カラチの高いGDPは金融セクターに大きく依存している。世界銀行は2007年2月にパキスタンで最も企業活動がしやすい都市としてカラチを選んだ[30]

一方、繊維産業セメント鉄鋼重機製造、化学工業、食品産業、銀行保険もカラチの主な産業となっている。自動車では1982年、日本のスズキが合弁企業、パック・スズキ・モーターを設立し、カラチ郊外の工業団地で自動車の生産販売に乗り出した[31]。2020年代では、パキスタン最大の自動車会社に成長している[32]。また、トヨタ自動車1989年にカラチ市内で合弁企業、インダス・モーターを設立。1993年からトヨタ・カローラなどの生産を始めている[33]

カラチはパキスタン経済の中枢であるが、政治的無秩序によって引き起こされた経済の停滞や1980年代1990年代後半に起こった民族紛争や軍事作戦は、カラチからの企業の流出を引き起こした。パキスタンの政府系および民間銀行のほとんどはI.I.Chundrigar通りに本部を置いており、2001年にはパキスタンのキャッシュフローの60%がこの通りで行われていた。多国籍企業のパキスタン本部もほぼカラチに置かれている。カラチ証券取引所は、パキスタン最大の証券取引所であり、この証券取引所が2005年以降のパキスタンの8%成長に果たした役割は大きいと多くの経済学者は考えている[34]。パキスタンの中央銀行であるパキスタン国立銀行は、カラチに本店を置いている。
人口統計

都市部人口推移
年人口±%
1856 56,875?    
1872 56,753?0.2%
1881 73,560+29.6%
1891 105,199+43.0%
1901 136,297+29.6%
1911 186,771+37.0%
1921 244,162+30.7%
1931 300,799+23.2%
1941 435,887+44.9%
1951 1,068,459+145.1%
1961 1,912,598+79.0%
1972 3,426,310+79.1%
1981 5,208,132+52.0%
1998 9,269,265+78.0%
2008 12,461,423+34.4%
Source:
[35]

カラチの人口は、直近150年間で劇的に変貌を遂げた。非公式ではカラチの人口は2000万人に到達したとされる[注釈 1]。1947年でのカラチの人口は40万人程度であった。カラチの人口は年率5%の増加を続けており、この増加数には、パキスタン各地からカラチへ出稼ぎに出てくる労働者の数も含んでいる[36]

カラチの歴史と関連するが、1947年以前のカラチには、パールシー、ユダヤ人、ヒンドゥー教徒キリスト教徒、バローチ人、グジャラート人(英語版)とシンド人が居住していた。しかし、パキスタンの分離独立により、多くのヒンドゥーがカラチを離れ、それに代わる形でインドから多くのウルドゥー語話者ムスリムが移住した。彼らをムハージル(英語版)と呼ぶ。ムハージルは、インド各地からカラチへやってきたため、それぞれの故郷の文化、料理をもたらした。現在ではムハージルの存在がカラチのコスモポリタン性に彩を添えている。

一方で、ムハージルと土着のシンド人との関係は良好とは言えず、しばしば衝突が起こっている。カラチはシンド州に属する都市だが、1960年代の推計ではカラチ人口におけるシンド人の割合は20%にすぎず、人口の6割以上はムハージルが占めていたとされる[37]。1960年代からシンド人の民族主義が高揚する一方、それに対抗する形で1970年代からムハージルの地位向上を目指す民族運動が盛んになり、1984年にはカラチでムハージルの民族政党であるムハージル民族運動 (Muhajir Quami Movement 、MQM) がアルターフ・フセインによって結成された[38]。ムハージル民族運動はカラチを地盤として勢力を伸ばしたが、1992年には2派に分裂し、1997年にはアルターフ・フセイン派が党名を統一民族運動 (Muttahida Qaumi Movement、MQM) と変更した。

1979年、ソ連によるアフガニスタン侵攻が勃発した。


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