カラチ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

2016年の近郊を含む都市的地域の人口は2,282万人であり、世界第7位である[1]。また、パキスタンにおける商業・金融の中心地でもある。位置は、北緯24度48分、東経66度59分。パキスタン建国から1960年8月1日に首都機能がイスラマバードに移転するまでは、同国の首都であった。
歴史
概要

バローチスタン州やマクラーン(英語版)に住んでいたバローチ人が漁村を作ったのがカラチの始まりである。バローチ人の多くが今もなお、カラチに居住しており、バローチー語ではこの都市のことを Kolachi と呼ぶ[2]。しかしながら、カラチが現在の姿に発展するようになったのは19世紀から始まるイギリス植民地時代に、植民地支配の拠点として都市および港湾を整備したことに起因する。1947年、パキスタンが独立を達成すると、カラチはパキスタンの首都となり、インドからムスリムが多く移住した。独立直後の人口移動により、カラチは、急速に人口が拡大するとともに、パキスタンにおける政治・経済の中心として機能するようになった。カラチはインフラストラクチャーが貧弱だったこともあり、社会経済的に大きな問題に直面したが、現在では、パキスタンにおける産業・ビジネスの中心地として発展を遂げた。
カラチの発展史

現在のカラチを中心とする地域は、古代ギリシアの時代より様々な呼ばれ方がされてきた。アレクサンドロス3世は、インド遠征からバビロニアへ帰還する際に、海路を選択しているがその頃の呼び名は、クロカラであった。8世紀には、アラブ人の間では、デバル(英語版)と呼ばれた港町であり、712年に始まるムハンマド・イブン・カースィムによるインド遠征の拠点となった。

今日のカラチは、Mai Kolachi(英語版)と呼ばれるシンド人の漁師が住居を構えたことから始まっており、その村は後にシンド語でKolachi-jo-Gothと呼ばれる村に成長していった。1700年代の後半になると村は、マスカットペルシア湾と結びついていたアラビア海の地域との交易の中心地となり、マスカットからは大砲が輸入され、城塞も建築された。城塞は2つの門を持っていた。1つは、Kharra Darwaazaと呼ばれ海に面し、もう一つは、Mitta Darwaazaと呼ばれLyari River(英語版)に面していた。

1795年、カラチは、バローチ人のタルプール(英語版)の支配を受けるようになった。1799年にはイギリス人の手によって小さいながらも工場の建設が行われた。しかし、この工場はすぐに閉鎖された。1839年イギリス東インド会社はカラチの支配に着手し、1843年には他のシンド人居住地域とともに、Charles James Napier(英語版)の手によって、東インド会社の支配する領域に組み込まれることとなった。

1840年代より、カラチはシンドの首都としての機能を有することとなった。イギリスはカラチの地政学的重要性を理解しており、また、インダス川流域で生産される産品の輸出港としての機能もカラチは有していたことから、急速にカラチとその港は、発展を遂げることとなった。カラチの地方政府は、インフラストラクチャーの整備を実行に移し、新しいビジネスがカラチで勃興し、カラチの人口は増加の一途をたどった。

1857年インド大反乱が勃発すると、カラチに駐在していた第21歩兵部隊はイギリスに対抗する形で反乱に参加した。イギリスはすぐさまカラチの鎮圧に乗り出し、これを制圧した。19世紀末のD.J.サイエンス・カレッジ(英語版)

1864年、インドからイギリスへ最初の電信が試みられたが、その際のインド側の発信地はカラチであった[3]。この頃アメリカ南北戦争が勃発し、イギリス本国の綿花不足を補うためパンジャーブの綿花が着目されて、綿花を輸出するためにカラチからハイデラバード対岸のコトリまで鉄道が建設された[4]。鉄道はさらに延伸され、1878年にはカラチは現在のインドの領域と鉄道で結ばれるようになった。また、フレアホールやEmpress Market(英語版)といった公共建築が建設されると同時に、カラチの町にはキリスト教会モスク、庁舎、市場舗装された道路、港の整備が行われた。その結果、1899年にはカラチは、東洋世界で最大のコムギ輸出港へ変貌を遂げた[5]。19世紀の終わりには、カラチの人口は105,000人を数え、ヒンドゥー、ムスリム、ヨーロッパ人、ユダヤ人パールシーイラン人レバノン人ゴア系(ゴアは当時ポルトガル領)の人々が住むコスモポリタンな都市へ成長した。

1947年、パキスタンが独立を達成するとカラチはパキスタンの首都となった。そのことにより、インドから多くのムスリムが移住することとなり、結果として、カラチは文化の多様性を抱える都市へと劇的に変貌を遂げた。しかし、1958年ラーワルピンディーに遷都するとカラチは長い間、経済的に停滞の時期を迎えた。旧市街地は無秩序な開発が進み、1976年9月13日には築1年の6階建てのアパートが倒壊して約200人が死亡する事故も発生した[6]

さらに、1980年代から1990年代にかけて、アフガニスタンから多くの難民が流入したこともカラチの停滞に拍車をかけた(背景は「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」「アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)」参照)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:80 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef