カラチ
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1799年にはイギリス人の手によって小さいながらも工場の建設が行われた。しかし、この工場はすぐに閉鎖された。1839年イギリス東インド会社はカラチの支配に着手し、1843年には他のシンド人居住地域とともに、Charles James Napier(英語版)の手によって、東インド会社の支配する領域に組み込まれることとなった。

1840年代より、カラチはシンドの首都としての機能を有することとなった。イギリスはカラチの地政学的重要性を理解しており、また、インダス川流域で生産される産品の輸出港としての機能もカラチは有していたことから、急速にカラチとその港は、発展を遂げることとなった。カラチの地方政府は、インフラストラクチャーの整備を実行に移し、新しいビジネスがカラチで勃興し、カラチの人口は増加の一途をたどった。

1857年インド大反乱が勃発すると、カラチに駐在していた第21歩兵部隊はイギリスに対抗する形で反乱に参加した。イギリスはすぐさまカラチの鎮圧に乗り出し、これを制圧した。19世紀末のD.J.サイエンス・カレッジ(英語版)

1864年、インドからイギリスへ最初の電信が試みられたが、その際のインド側の発信地はカラチであった[3]。この頃アメリカ南北戦争が勃発し、イギリス本国の綿花不足を補うためパンジャーブの綿花が着目されて、綿花を輸出するためにカラチからハイデラバード対岸のコトリまで鉄道が建設された[4]。鉄道はさらに延伸され、1878年にはカラチは現在のインドの領域と鉄道で結ばれるようになった。また、フレアホールやEmpress Market(英語版)といった公共建築が建設されると同時に、カラチの町にはキリスト教会モスク、庁舎、市場舗装された道路、港の整備が行われた。その結果、1899年にはカラチは、東洋世界で最大のコムギ輸出港へ変貌を遂げた[5]。19世紀の終わりには、カラチの人口は105,000人を数え、ヒンドゥー、ムスリム、ヨーロッパ人、ユダヤ人パールシーイラン人レバノン人ゴア系(ゴアは当時ポルトガル領)の人々が住むコスモポリタンな都市へ成長した。

1947年、パキスタンが独立を達成するとカラチはパキスタンの首都となった。そのことにより、インドから多くのムスリムが移住することとなり、結果として、カラチは文化の多様性を抱える都市へと劇的に変貌を遂げた。しかし、1958年ラーワルピンディーに遷都するとカラチは長い間、経済的に停滞の時期を迎えた。旧市街地は無秩序な開発が進み、1976年9月13日には築1年の6階建てのアパートが倒壊して約200人が死亡する事故も発生した[6]

さらに、1980年代から1990年代にかけて、アフガニスタンから多くの難民が流入したこともカラチの停滞に拍車をかけた(背景は「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」「アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)」参照)。ムハージル(英語版)と呼ばれるインド・パキスタン分離後にカラチに流入したムスリムと、従来カラチに居住していた住民との間で、政治的に対立が生じ、暴力事件にまで発展することもあった。現在では、この対立は沈静化している。

カラチはパキスタンの経済(英語版)の中心として、首都がラーワルピンディーからイスラマバードへ移った現在も君臨し続けている。パキスタンに占める国内総生産の大部分をカラチが占めている現状は変わっておらず、現在ではカラチを中心とするカラチ都市圏の人口は非公式では2千万人といわれている。また、パキスタンでは経済的に活況を呈しており、新時代への旗手的役割を担っている。2021年にはサウジアラビアが製油所建設計画地を西方のグワーダルからカラチに変更したほか、中華人民共和国も「一帯一路」を構成する中国パキスタン経済回廊(CPEC)のアラビア海側開発対象をカラチにすることを決めた[7]

一方で、カラチの治安は悪く、日本人が犯罪に遭ったケースもある[8]。2013年以降、イスラーム過激派によるテロが相次いでおり、2014年6月8日にはジンナー国際空港をパキスタン・ターリバーン運動ウズベキスタン・イスラム運動が襲撃し[9]、治安関係者や空港職員28名が殺害された。
地理カラチの衛星写真

カラチ市はシンド州に属するが州の西端に位置し、西はバローチスターン州に接する。市の中心部の北側をリヤーリー川が、南側をマリール川が流れ、中心市街地はこの両河川の間の三角州に発達している[10]。町の南にはアラビア海が広がり、クリフトン・ビーチやマノラ・ビーチといったビーチがあって多くの市民が訪れる。中心市街地の西から南西には潟湖が広がっている。この潟湖に接する地点に港が置かれ、その周辺には旧市街が広がっている。旧市街から東に向かうと新市街であり、サダル地区を中心に現在のカラチの中心となっている。
行政

2011年、カラチ市の地区政府は東カラチ、南カラチ、中央カラチ、西カラチ、マリール地区の5つに分割され、この5地区が現在カラチ地区を形成している[11][12][13]。市管理者はムハンマド・フセイン・サイードであり[14]、市政長官はマタナト・アリ・カーンである。このほかに、市内にはパキスタン軍によって管理される6つの宿営地(カントンメント)が存在している[15]
気候

カラチは砂漠気候に属するが、降水量は約250mmと砂漠気候としては多い。降水量は少ないものの、海に近いため、湿度は高めである。降水は、モンスーンの影響を受ける7月から9月に集中する。また、モンスーン時には、排水設備が殆ど整備されていないため、道路が冠水する。また冠水した水も、主要道路を除いて汚水処理されないため微生物が繁殖し、感染症拡大の危険性が懸念されている。

夏になると、海から涼しい風が吹き込むため、パキスタンでは割合穏やかな気候である。モンスーンの吹く前、5月から6月にかけてが最も暑く乾燥し、乾期の終わりには熱波に襲われ、1,000人以上が死亡する厳しい環境になることがある[16]。12月から1月にかけては冬に当たるため、やや気温が下がり、快適な気候となる。

カラチの月間降雨記録は、1967年7月の429.3mmである[17]。一日の最高降雨記録は、1953年8月7日の278.1mmであり、このときカラチは記録的な大洪水に見舞われた[18]。カラチの最高気温記録は1979年6月18日の47[17]、最低気温記録は1934年1月21日の0.0℃である[17]

カラチの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)32.8
(91)36.1
(97)41.5
(106.7)44.4
(111.9)47.8
(118)47.0
(116.6)42.2
(108)41.7
(107.1)42.8
(109)43.3
(109.9)38.5
(101.3)34.5
(94.1)47.8
(118)
平均最高気温 °C (°F)25.6
(78.1)26.4
(79.5)28.8
(83.8)30.6
(87.1)32.3
(90.1)33.3
(91.9)32.2
(90)30.8
(87.4)30.7
(87.3)31.6
(88.9)30.5
(86.9)27.3
(81.1)30.0
(86)
平均最低気温 °C (°F)14.1
(57.4)15.9
(60.6)20.3
(68.5)23.7
(74.7)26.1
(79)27.9
(82.2)27.4
(81.3)26.2
(79.2)25.3
(77.5)23.5
(74.3)20.0
(68)15.7
(60.3)22.2
(72)
最低気温記録 °C (°F)0.0
(32)3.3
(37.9)7.0
(44.6)12.2
(54)17.7
(63.9)22.1
(71.8)22.2
(72)20.0
(68)18.0
(64.4)10.0
(50)6.1
(43)1.3
(34.3)0.0
(32)
雨量 mm (inch)3.6
(0.142)6.4
(0.252)8.3
(0.327)4.9
(0.193)0
(0)3.9
(0.154)66.4
(2.614)44.8
(1.764)22.8
(0.898)0.3
(0.012)1.7
(0.067)4.5
(0.177)167.6
(6.6)
出典1:HKO (normals, 1962?1987)[19]
出典2:PakMet (extremes, 1931?2008)[17]


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