カミッロ・カヴール
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イタリア王国政治家カヴール伯爵カミッロ・ベンソCamillo Benso, Conte di Cavour
カヴールの肖像(アントニオ・チゼリ画、トーレンス城(英語版)所蔵[1]
生年月日 (1810-08-10) 1810年8月10日
出生地 サルデーニャ王国トリノ
没年月日 (1861-06-06) 1861年6月6日(50歳没)
死没地 イタリア王国トリノ
サイン
初代首相(閣僚評議会議長)
内閣(第4次)カヴール内閣
在任期間1861年3月22日 - 1861年6月6日(カヴールの死去による)
国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
第13代首相
内閣第3次カヴール内閣
在任期間1860年1月21日 - 1861年3月22日
国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
第11代首相
内閣第2次カヴール内閣
在任期間1855年5月4日 - 1859年7月19日(総辞職決定は7月12日
国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
第10代首相
内閣第1次カヴール内閣
在任期間1852年11月4日 - 1855年5月4日
国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
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カヴールチェッラレンゴイゾラベッラ伯爵、カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(通称カヴール伯爵)(イタリア語: Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isolabella, noto semplicemente come conte di Cavour o Cavour、1810年8月10日 - 1861年6月6日)は、19世紀イタリア(サルデーニャ王国)の政治家実業家。カヴールは爵位名で、家名)はベンソ(ベンソ家)である[2]サルデーニャ王国首相、イタリア王国首相を歴任。
概要

1810年8月10日に父ミケーレ・カヴール(イタリア語版)と母アデーレ・デ・セロンの第2子として、当時フランス帝国領だったピエモンテ地方トリノで生まれた(→出生と出自)。ナポレオン1世の退位後にトリノはサルデーニャ王国の統治に戻った。カヴールはトリノ王立士官学校に入校し軍人の道を歩み始めた(→士官学校時代)。カヴールは士官学校を卒業し軍人になったが、元々軍人気質が肌に合わず、また自由主義思想を培ったことで軍隊内で危険人物として監視下に置かれたので1831年に軍を除隊した(→軍人として)。

軍の除隊後にカヴールは実業家に転身し農業ビジネスなどで成功を収めた。また新聞『イル=リソルジメント』創刊への協力などジャーナリズム事業にも関わった(→実業家として)。1848年革命の影響で国王カルロ・アルベルトがアルベルト憲章を発布し議会を設置すると、カヴールは下院議員に立候補し補欠選挙で当選した。これによってカヴールは実業家から政治家へ転身した(→カヴールの政治家への転身)。

サルデーニャ王国では1849年に新王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位し、マッシモ・ダゼーリョを首相に任命した。1850年にカヴールはダゼーリョ内閣の国務大臣に就任した(→カヴールの国務大臣就任)。民事婚法案を巡って1852年にダゼーリョは首相を辞任した。代わってカヴールが首相の座に就いた(→ダゼーリョの退陣とカヴールの首相就任)。カヴール政権前期で最大の政治的危機はカラビアーナ危機(イタリア語版)で、国内の修道院の特権廃止を巡るカトリック勢力との対立から生じたものだった。カヴールはこの難局を乗り切り、サルデーニャ王国での政教分離・世俗化が図られた(→カラビアーナ危機と第二次カヴール内閣の発足)。

1854年クリミア戦争が勃発した。イギリス・フランスはサルデーニャ王国に参戦を要請したが、カヴールは英仏に恩を売っておくまたとない好機と捉え参戦を決定した(→クリミア戦争参戦)。

カヴールは北中部イタリアでサルデーニャ王国の版図を拡大することを目論んだ。しかしロンバルディア・ヴェネツィアは大国オーストリアの支配下にあったので、自力での版図拡大は困難だった。カヴールはフランスに接近し、自国への援助を引き出すことを目的として、1858年にフランス皇帝ナポレオン3世プロンビエールの密約を交わした。サルデーニャ王国がオーストリアからロンバルディアヴェネツィアを奪取することにフランスが協力する代わりに、サルデーニャ王国領のサヴォワニースをフランスに割譲することなどが定められた(→プロンビエールの密約)。

1859年にフランス・サルデーニャ連合軍はオーストリア軍と交戦した(第二次イタリア独立戦争)。しかしナポレオン3世は自軍(フランス軍)に多大な損害が出たことなどから、独断でオーストリアと和睦した(ヴィッラフランカの休戦)。サルデーニャ王国はロンバルディアを獲得したが、ヴェネツィアは獲得できなくなった。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、ナポレオン3世に従うほかなく和睦はやむを得ないと考えたが、カヴールは継戦を主張した。カヴールは和睦に抗議して首相を辞任した(→ヴィッラフランカの和約をめぐって)。しかしサルデーニャ王国で政局の混乱が発生し1860年にカヴールは首相に再登板した。この頃のカヴールの支持基盤は確たるものになっており、カヴール政権後期は「議会制独裁」と呼ばれるほどカヴール一強の様相になった(→1860年の首相再登板(第三次カヴール内閣の発足))。

もともとカヴールはイタリア全土を統一することを構想しておらず、イタリア地域で最も栄えていたロンバルディアの獲得など、北中部イタリアで勢力圏を拡大することを目的にしていた。両シチリア王国南イタリアシチリア)は経済的発展が立ち遅れており、併合することをカヴールは望んでいなかったが、ジュゼッペ・ガリバルディが指揮する千人隊両シチリア王国への遠征を開始したので、やむを得ずイタリア全土の統一にカヴールは方針を転換した(→千人隊(赤シャツ隊)の遠征)。

1861年3月にイタリア王国が成立した。併合した地域出身の政治家を加えた新内閣を発足させるべくカヴールは内閣総辞職を申し出たが、カヴールと長年対立していた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、この機会に目障りなカヴールを放逐すべく新首相にベッティーノ・リカーゾリ(イタリア語版)を任命した。しかしリカーゾリはこれを拝辞したため、国王は恥を忍んでカヴールを首相に任命した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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