カミッロ・カヴール
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結果として1856年パリ講和会議に列席し、イタリアの窮状を各国に訴えるという当初の目的を果たした[1]。反動的なイタリア諸邦の中でカヴール率いるサルデーニャ王国だけが立憲主義とイタリア統一への意思を持続し、イタリア統一主義者たちの希望を集めた。

1858年7月、カヴールはオーストリアに代わってイタリアへの影響力拡大を狙うナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を結び、国境付近でイタリア人とフランス人の割合が拮抗するサヴォワニースの割譲を代償に、フランス軍の対オーストリア参戦を約束させた[1][2]
イタリア統一1861年のカヴール

1859年、密約が漏れ、緊張の高まる中でオーストリアは最後通牒を発し、第二次イタリア独立戦争が始まった。カヴールは国王の一般人との再婚に反対し、国王の直接の戦争指揮を妨げて対立し、辞任を迫られた。だが内外からの信望の高さにより、国王は再任を認めざるを得なかった。

フランスはイタリアと共同でオーストリアと戦い、北イタリアのうちロンバルディアサルデーニャ王国の手中に落ちたが、ヴェネトはオーストリアに留まった。フランス軍の多大な犠牲とフランスの勢力拡大を恐れるイギリスの干渉により、ナポレオン3世は同年7月オーストリアと突如ヴィッラフランカの和議を結び、カヴールを裏切った。これに対してカヴールは抗議の辞任をしたが、翌1860年1月に首相に復帰した。ハプスブルク家が支配していたトスカーナブルボン家支配のエミリアで住民投票を実施し、平和裏にイタリア中部のサルデーニャ王国併合を成功させた。これを黙認したフランスに報いるため、密約に基づいてサヴォアニースを割譲した[2]

ニース出身のガリバルディは故郷の割譲に激怒し、共和派も加えた義勇軍を率いてブルボン家の支配する南部の両シチリア王国を倒し、カヴールもこれを黙認しながら共和派の勢いの制御に努めた。義勇軍の進撃により、住民投票による平和裏なイタリア中部の併合が妨げられること、ローマに駐留するフランス軍と衝突することを恐れたカヴールは、国王率いるサルデーニャ軍を送って義勇軍のローマ進撃を阻止した。民主主義者でありながら君主制支持者でもあったガリバルディは、敬愛するヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に両シチリア王国を献上した。テアーノの握手という伝説がある。ローマ教皇領・ヴェネトを除くイタリア統一がほぼ完成した。

この間カヴールは首相のほか、外相・内相・陸軍相・海軍相を兼ね、オーストリアとの戦争のみならず、フランス、イギリス、プロシア、ロシアによる干渉、国内では国王、マッツィーニ率いる共和派、ガリバルディ、ローマ教皇などとの政争を勝ち抜いた。1861年、統一議会が開かれ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は統一イタリア王に推戴され、法律、度量衡、通貨などが統一された。また、カヴールも初代イタリア王国首相に任じられた[2]

ほぼ10年間の首相在任期間の激務の中で、たびたび病に倒れた。1861年の短期間に病気療養した直後、イタリア王国首相就任のわずか3か月後に死亡した。死の前日にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会ったが「いえ陛下、明日私が陛下のお目にかかることは叶わないでしょう」とカヴールは言った[3]。死因は慢性のマラリアと推定される。遺体はサンテナ城に埋葬された[1]。その死後もヴィットーリオ・エマヌエーレ2世マッツィーニガリバルディからの憎悪は続いた。内に共和派の突き上げ、王との確執、外に大国(オーストリア・フランス・イギリス・ロシア)の干渉という難題を抱えながら、卓越した政治力と外交術を駆使してイタリア統一を成し遂げた功績から、後世に「神がイタリア統一のため地上に遣わした男」との呼び名が付いた。愛人はいたものの生涯結婚はせず、兄の家族と同居した。
伝記

ロザリオ・ロメーオ『カヴールとその時代』
柴野均訳、白水社、1992年

藤澤房俊『カヴール - イタリアを創った稀代の政治家』 太陽出版、2021年

出典^ a b c d e f g .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Cavour, Camillo Benso" . Encyclopadia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
^ a b c d e f g h i j k “カブールとは”. コトバンク. 2021年1月1日閲覧。
^ Marvin, Frederic Rowland (1900). The Last Words (Real and Traditional) of Distinguished Men and Women. Troy, New York: C. A. Brewster & Co.. https://books.google.com/books?id=1TUzAQAAMAAJ 

関連項目

カヴールの名を冠した軍艦として、以下の2隻が存在する。

コンテ・ディ・カブール (戦艦) - コンテ・ディ・カブール級戦艦の1番艦

カヴール (空母)

外部リンク

『カブール
』 - コトバンク

公職
新設 イタリア王国首相(閣僚評議会議長)
初代:1861年次代
ベッティーノ・リカーソリ
新設 イタリア王国外相


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