軍を除隊したカヴールは自力で生計を立てることが困難だったので親族らと同居した。兄グスターヴォ・カヴール(イタリア語版)の長男アウグスト(1828年生まれ)は無邪気にカヴールに絡んできたが、カヴールは幼児との接し方が分からず苛立っていた[22]。
軍を除隊してからのカヴールは酷い抑うつ状態に陥っていた。当時のサルデーニャ王国を覆っていた保守反動的風潮も自由主義者カヴールの感性と精神状態に悪影響を与えたと言われる。一説によれば、カヴールはトリノのカプチーニの丘(イタリア語版)から投身自殺を試みようとしたがヴァレリアーノ修道士という人物によって引き留められたという[24]。軍を除隊して落胆するカヴールを立ち直らせようと、父ミケーレ・カヴール(イタリア語版)は自分の政治力を使って、小さな村(グリンツァーネ)の村長の地位を息子に与えた[22][25]。グリンツァーネにはカヴール家所有の城と農場があった。この小村でカヴールは農場経営に関わるようになった。カヴールは「王国の首相になったような気分だ」と語った[25]。カヴールは村長の地位を1848年まで保持していた[25]。
共和主義者ジュゼッペ・マッツィーニは、イタリアの統一と共和国樹立を目指して活動し、1833年にマッツィーニら青年イタリアのメンバーがイタリアの革命を試みて周辺国からサヴォア地方へ攻め込む事件が発生した[26]。国王カルロ・アルベルトは容赦なく弾圧し、マッツィーニには欠席裁判で死刑判決が下った。ジュゼッペ・ガリバルディもこの企てに関与したとの嫌疑が掛けられて同じく死刑判決が下った[27]。マッツィーニとガリバルディは外国へ逃れて死刑を免れた。ガリバルディは南米へ渡った[28]。この時期カヴールは、ロンバルド=ヴェネト王国統治下のロンバルディアを訪れることを考えていたが、このような政情不安定の情勢だったのでカヴールの希望するロンバルディア訪問はオーストリア当局が許可しなかった。カヴールは祖国の軍隊のみならずオーストリア当局にも危険思想の持ち主としてマークされていた[27]。
イギリス・フランスへの遊学詳細は「カミッロ・カヴールの海外遊学(イタリア語版)」を参照
カヴールは1834年12月から5歳年上の友人ピエトロ・ディ・サンタローザ(イタリア語版)とイギリス・フランスへの遊学に出かけた[27][29]。まずパリに2か月ほど滞在し、パリの視察や、ソルボンヌ大学での聴講、知識人や政治家との交流を行っている[17]。
続いて1835年5月にロンドンを訪れた。ロンドンでも同じく街の各地を視察した。またカヴールは議会下院を傍聴した。カヴールはイギリスの議会政治を評価していたが、居眠りしている議員がいることや、私語をしている議員がいることには失望感を覚えた[30][31]。
実業家として30代のカヴール
帰国後のカヴールは実業家として頭角を現した。後述の農業事業や鉄道事業のほか銀行の設立にも関与した。カヴールの多角的な事業はいずれも成功し「イタリア最初の成功した実業家」と考える識者もいる[32]。 カヴールは農業関係の事業を開始し、自家の保有する約900ヘクタールのレーリ
農業事業
カヴールは自らレーリ(イタリア語版)農場を視察して回った。カヴールは「私は麦わら帽子をかぶって朝から晩まで農地を駆け回っていた」と書いている[38]。カヴールはマラリアとみられる症状で死去したが、マラリアは実業家時代に農場で蚊に刺され罹患したと考えられている[35]。
鉄道事業トリノージェノヴァ間に開通した鉄道
カヴールは鉄道を「文化と経済の進歩をもたらす偉大な道具」と評価した[39]。イタリア地域の鉄道敷設は立ち遅れていたが、1844年にサルデーニャ王国は鉄道の敷設を決定しトリノとモンカリエーリを結ぶ約8キロの鉄道が開通した[39]。カヴールは鉄道事業に関心を持ちフランスの鉄道会社に出資を行っていた。祖国でも民間主導での鉄道敷設をカヴールは期待していたが、サルデーニャ王国は鉄道建設を国家主導で行った。カヴールは、祖国では枕木やレールなどの鉄道建設資材の供給事業を手掛けた[40]。
鉄道は軍事的用途にも使用され、のちの第二次イタリア独立戦争では、サルデーニャ軍とフランス軍は開通したばかりの鉄道路線を使ってロンバルディアに出陣した[40]。