カミッロ・カヴール
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私は農業に関わることができるでしょうし、管理能力もあると思います。」「無為な生活や思索だけの生活を送ることはありません」と現状の問題と今後の展望を書簡で述べた[21][22]。カヴールは軍に除隊を申し出て1831年11月にサルデーニャ軍を除隊した[20]。カヴールは当時21歳だった。カヴールを嫌っていたカルロ・アルベルト(1831年に国王に即位)はカヴールへの嫌がらせとして、今後、退役軍人として式典に出席する機会があったとしても工兵隊の軍服を着用して出席することを認めないとした[20]。ちなみに除隊したときのカヴールの最終階級は中尉だった[23]
小村の村長に就任グリンツァーネ・カヴール城。バローロなどと共に世界遺産ピエモンテのブドウ畑の景観:ランゲ=ロエーロとモンフェッラートを構成する。

軍を除隊したカヴールは自力で生計を立てることが困難だったので親族らと同居した。兄グスターヴォ・カヴール(イタリア語版)の長男アウグスト(1828年生まれ)は無邪気にカヴールに絡んできたが、カヴールは幼児との接し方が分からず苛立っていた[22]

軍を除隊してからのカヴールは酷い抑うつ状態に陥っていた。当時のサルデーニャ王国を覆っていた保守反動的風潮も自由主義者カヴールの感性と精神状態に悪影響を与えたと言われる。一説によれば、カヴールはトリノのカプチーニの丘(イタリア語版)から投身自殺を試みようとしたがヴァレリアーノ修道士という人物によって引き留められたという[24]。軍を除隊して落胆するカヴールを立ち直らせようと、父ミケーレ・カヴール(イタリア語版)は自分の政治力を使って、小さな村(グリンツァーネ)の村長の地位を息子に与えた[22][25]。グリンツァーネにはカヴール家所有の城と農場があった。この小村でカヴールは農場経営に関わるようになった。カヴールは「王国の首相になったような気分だ」と語った[25]。カヴールは村長の地位を1848年まで保持していた[25]

共和主義者ジュゼッペ・マッツィーニは、イタリアの統一と共和国樹立を目指して活動し、1833年にマッツィーニら青年イタリアのメンバーがイタリアの革命を試みて周辺国からサヴォア地方へ攻め込む事件が発生した[26]。国王カルロ・アルベルトは容赦なく弾圧し、マッツィーニには欠席裁判で死刑判決が下った。ジュゼッペ・ガリバルディもこの企てに関与したとの嫌疑が掛けられて同じく死刑判決が下った[27]。マッツィーニとガリバルディは外国へ逃れて死刑を免れた。ガリバルディは南米へ渡った[28]。この時期カヴールは、ロンバルド=ヴェネト王国統治下のロンバルディアを訪れることを考えていたが、このような政情不安定の情勢だったのでカヴールの希望するロンバルディア訪問はオーストリア当局が許可しなかった。カヴールは祖国の軍隊のみならずオーストリア当局にも危険思想の持ち主としてマークされていた[27]
イギリス・フランスへの遊学詳細は「カミッロ・カヴールの海外遊学(イタリア語版)」を参照

カヴールは1834年12月から5歳年上の友人ピエトロ・ディ・サンタローザ(イタリア語版)とイギリス・フランスへの遊学に出かけた[27][29]。まずパリに2か月ほど滞在し、パリの視察や、ソルボンヌ大学での聴講、知識人や政治家との交流を行っている[17]

続いて1835年5月にロンドンを訪れた。ロンドンでも同じく街の各地を視察した。またカヴールは議会下院を傍聴した。カヴールはイギリスの議会政治を評価していたが、居眠りしている議員がいることや、私語をしている議員がいることには失望感を覚えた[30][31]
実業家として30代のカヴール

帰国後のカヴールは実業家として頭角を現した。後述の農業事業や鉄道事業のほか銀行の設立にも関与した。カヴールの多角的な事業はいずれも成功し「イタリア最初の成功した実業家」と考える識者もいる[32]
農業事業

カヴールは農業関係の事業を開始し、自家の保有する約900ヘクタールのレーリ(イタリア語版)農場に資本主義的大規模農場経営を導入して成功を収めた。レーリ(イタリア語版)農場の小麦の収穫量はカヴールの経営で38%増加した[33]。カヴールはレーリ農場でグアノを大量に使用して生産性を向上させたが[34]、チリ産のそれの輸入・販売事業も手掛けこちらも成功した[35]。また化学肥料工場や麦の製粉所も設置し機械化を進めた[36]。カヴールは畜産分野にも興味をもちロバート・ベイクウェル(英語版) の成功に倣って、メリノ種の羊を品種改良して羊肉と羊毛を多く得ることのできる、体格の巨大な羊種を作り出そうと努力していた[33]灌漑の重要性を理解しカヴールは水路の開発も進めたが、水利権者から提訴され訴訟沙汰に発展している[37]

カヴールは自らレーリ(イタリア語版)農場を視察して回った。カヴールは「私は麦わら帽子をかぶって朝から晩まで農地を駆け回っていた」と書いている[38]。カヴールはマラリアとみられる症状で死去したが、マラリアは実業家時代に農場で蚊に刺され罹患したと考えられている[35]
鉄道事業トリノジェノヴァ間に開通した鉄道

カヴールは鉄道を「文化と経済の進歩をもたらす偉大な道具」と評価した[39]。イタリア地域の鉄道敷設は立ち遅れていたが、1844年サルデーニャ王国は鉄道の敷設を決定しトリノモンカリエーリを結ぶ約8キロの鉄道が開通した[39]。カヴールは鉄道事業に関心を持ちフランスの鉄道会社に出資を行っていた。祖国でも民間主導での鉄道敷設をカヴールは期待していたが、サルデーニャ王国は鉄道建設を国家主導で行った。カヴールは、祖国では枕木やレールなどの鉄道建設資材の供給事業を手掛けた[40]

鉄道は軍事的用途にも使用され、のちの第二次イタリア独立戦争では、サルデーニャ軍とフランス軍は開通したばかりの鉄道路線を使ってロンバルディアに出陣した[40]


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