カマラ・ハリス
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2020年11月3日に実施された2020年アメリカ合衆国大統領選挙に民主党の大統領候補であるジョー・バイデンの副大統領候補として出馬して当選を果たした[10]1月20日大統領就任式を経て副大統領に就任した[11]。初の女性・アフリカ系・南アジア系の副大統領である[12]
来歴
生い立ち

1964年10月20日にカリフォルニア州オークランドで誕生した。母親のシャーマラ・ゴーパーラン(英語版)(Shyamala Gopalan、1938年 - 2009年)は、1960年にアメリカに移民したバラモン階級に属するチェンナイ出身のタミル系インド人で、著名な乳がん研究者であった[13][14]

父親のドナルド・J・ハリス(英語版)(Donald Jasper Harris 1938年 - )はジャマイカ人移民で、カリフォルニア大学バークレー校で経済学を修学する為に1961年にアメリカ合衆国に渡り、その後スタンフォード大学の経済学教授になった[19]

カマラの名は、ヒンドゥー教の女神ラクシュミーの別名から名付けられたもので、サンスクリット語の「の女性」(: kamal?、カマラー)に由来する。子供のころは、インドのチェンナイ市ベサントナガルにある母の実家に頻繁に訪れて、母方の祖父でありインドの外交官だった P・V・ゴーパーランと懇意にしていた[14][20]ハリスが幼少期に住んだ家。

ハリスの唯一の妹であるマヤ・ハリス(英語版)(Maya Lakshmi Harris 1967年 - )は現在、弁護士で社会運動家である。妹の夫は、前アメリカ司法次官で現在Uberの法務部門を率いているトニー・ウェスト (弁護士)(英語版)(Derek Anthony "Tony" West 1965年 - )である[21][22]

一家は両親の通う大学院があるカリフォルニア州バークレーに住んでいた[23]。大多数がアフリカ系アメリカ人の地域で、バプテスト教会の聖歌隊でハリスは妹と歌っていた[18]。ハリスは、バークレーの行政が行った包括的差別撤廃プログラムによるバス通学を利用して、バークレー北部のより経済的に豊かな地域に位置するThousand Oaks小学校に通った[24]。この小学校はもともと95%が白人だったが、差別撤廃計画が実行されてからは黒人の比率が40%まで増えた[25]。当時のバークレーでたびたび行われた公民権運動のデモにも、両親は子供を連れて参加していた[23]。ハリスが7歳のときに両親は離婚し、その後は妹とともに母親に育てられた[23]。それからハリスが12歳のとき、母子はカナダのケベック州モントリオールに移住した。母シャーマラはジューイッシュ総合病院(英語版)で研究しながらマギル大学で教鞭をとっていた[26][27]

ハリスはモントリオールのウェストマウント高校を卒業した後、ワシントンD.C.ハワード大学政治学経済学を専攻した[28][29]。ここでソロリティであるアルファ・カッパ・アルファ(英語版)に入会する[30][31]

大学を卒業後、ハリスはカリフォルニアに戻り、カリフォルニア大学ヘイスティングス・ロー・スクールで学んだ。1989年に法務博士号 (J.D.) を取得し[32]、カリフォルニア州の法曹資格試験に挑んだが不合格になった。ハリスは後に「試験で実力は計れません」と述べている[18]。翌1990年にカリフォルニア州の法曹資格を取得した[33]
州地方検察
地方検事補

1990年から1998年まで、カリフォルニア州アラメダ郡にて地方検事補として働いた。検察という仕事を選んだことについて、行政に変化をうながすために「実際に決定がなされる場にいたかったのです」と述懐している[18]

1998年以降は、1996年サンフランシスコで初のアフリカ系アメリカ人の市長となったウィリー・ブラウンの市政でサンフランシスコ地方検察局に赴任し、ハリスは常習犯対策班(Career Criminal Unit)の指揮を任された。2000年、サンフランシスコ市検事(City Attorney)のルイーズ・レネに要請されて、地域コミュニティ課(Community and Neighborhood Division)のチーフになった[34]

この間、ロサンゼルス・デイリー・ジャーナル(英語版)誌上にて、カリフォルニアの法曹トップ100人の中に選ばれた。またカリフォルニア地方検察協会の役員と、全米地方検察協会の副会長を務めた[35]
サンフランシスコ地方検事2004年、下院院内総務ナンシー・ペロシ

2003年の選挙において、2期務めた現職のテレンス・ハリナン(英語版)を下して、サンフランシスコ地方検事に当選した[36]

2004年4月、サンフランシスコ市警の警察官アイザック・エスピノザが殉職した事件で、犯人に死刑を求刑しないことをハリスは表明した[18]。これはサンフランシスコ警察官組合の反発を招いた。エスピノザの葬儀において、サンフランシスコのダイアン・ファインスタイン市長は最前列に座っていたハリスにむけて、壇上から犯人への死刑求刑を要望し、参列した2000名の警官たちはそれにスタンディング・オベーションを送った。それでもハリスは死刑求刑を拒否した。エスピノザを殺害した犯人はその後終身刑を言い渡された[18]

ハリスは麻薬密売の初犯者に対し、高校卒業と就職の機会を与えるプログラムを始めた。参加者は8年間で300名に満たなかったが、極めて低い再犯率を達成した[18]

2007年に無投票再選した[37]


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