カボチャ
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21世紀の遺伝子解析による考古学的な植物調査では、北米東部の民族が各々にカボチャ、ヒマワリ、アカザを栽培化したことが示唆されている[22]

ニホンカボチャは、1492年クリストファー・コロンブス新大陸発見後、ヨーロッパに持ち帰られて、大航海時代に世界中に広まって東南アジア地域で古くから栽培されるようになり、日本へは1541年頃にポルトガル船によって九州に伝播した[6]

日本への渡来については諸説あるが、中央アメリカ原産のニホンカボチャ(日本かぼちゃ)は、天文年間(1532年-1555年)[注 1]豊後国(現在の大分県)に漂着したポルトガル人がカンボジアから持ち込み、当時の豊後国の大名であった大友義鎮(宗麟)に種を献上したという説が有力である[9][23][24]。このカボチャは「宗麟かぼちゃ」と名づけられ大分県などで伝統的に栽培されている[25]ほか、福岡県豊前市三毛門地区で栽培されている三毛門かぼちゃは、宗麟かぼちゃが伝わったものとされており、2018年には豊前市の天然記念物に指定された[26]。また南アメリカ原産のセイヨウカボチャは、1863年(文久3年)にアメリカから日本に渡来し、当初は北海道などの冷涼地を中心に広まり[2][6]、大正時代に関東地方以南でも栽培されるようになった[6]アイヌの人々もカボチャを栽培しており、北海道での栽培の歴史は古い[27]。なお、形態的に変異の大きいペポカボチャは、明治初年に8品種が日本に導入されたという記録が残されているが、20世紀にはあまり栽培されなかった[6]。ペポ種は中国を経由して来たため、「唐茄子」とも呼ばれる。

1944年2月、東京都第二次世界大戦の戦局が悪化すると各家庭にカボチャをはじめとした種子と栽培法の小冊子を配布。最低一戸当たりカボチャ一株を箱栽培や路傍栽培で育てるよう奨励を行った[28]。米や麦が十分ではなかった太平洋戦争中および終戦直後の時代は、カボチャは貧困に喘いでいた日本人の食をサツマイモなどの芋類と共に支えた[29][9]。1947年(昭和22年)、小倉建夫と小倉積が初のF1品種「新土佐」(土佐鉄かぶと)を育成し[9]、1964年(昭和39年)にはタキイ種苗により早出し可能な西洋カボチャのF1品種「えびす」の育成に成功した[30]
品種

栽培されている品種は、C. argyrosperma(ニホンパイカボチャ)、クロダネカボチャ、セイヨウカボチャ、ニホンカボチャペポカボチャの5種とそれらの雑種である[31]。日本で流通しているカボチャは、ニホンカボチャ、セイヨウカボチャ、ペポカボチャの3系統に大別される[32][6]。日本に先に定着した東洋系のニホンカボチャ(日本種)は、黒皮系で縦に溝が入ったゴツゴツとした形のものが多く見受けられ[32]、果肉は粘質で、日本では昔から栽培されているので多くの地方品種がある[33]。またセイヨウカボチャ(西洋種)は、肉質が粉質で、果皮色は黒緑色、白色、赤色があり、日本では栽培されるカボチャの主流になっており、当初は冷涼地向けの品種が多かったが、暖地向きの品種も育成されている[32][6]。ぺポカボチャ(ペポ種)は、若どり用のつるなしカボチャや、外観が色とりどりのものがあり、観賞用に栽培されるものもある[33]
クロダネカボチャ(学名:C. ficifolia)
アメリカ大陸原産。強健な性質を利用して、キュウリ接ぎ木の台にすることも多い。
セイヨウカボチャ(西洋かぼちゃ、学名:C. maxima、マキシマ種)
アンデス山脈高地の冷涼な土地で栽培化された種で、現在日本で広く栽培されているカボチャである。花梗はスポンジ状で膨れており、畝は無い。一般的に、果肉はニホンカボチャよりデンプン含有量は多く、粉質で食感はホクホクとして甘みは強く、栗かぼちゃとも呼ばれる[34][6]。果皮色はさまざまで、灰緑色の青皮系、濃緑色の黒皮系、朱色の赤皮系に大別される[34][35]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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