カバネ
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^ 中村友一は「氏(ウヂ)」について次のようにまとめている。「日本古代の『氏』は家族(family)・親族を中心としつつも、その周縁などに擬制的同祖同族関係の氏族も結びついて構成される政治集団である。いわゆる、親族・血縁集団の集合で構成される西洋歴史学の概念である『氏族(Clan)』とは異なるものである[11]。古代日本の史書では「姓」字によってウヂ、カバネ、あるいはその双方を指す場合がある[3]。」
^ 例えば複数の国に見られる官名「卑狗(ヒコ)」「卑奴母離(ヒナモリ)」や、不弥国にみえる「多模(タマ)」、投馬国に見える「弥弥(ミミ)」等[14]
^ この語は『日本書紀』巻2に「数多く長く続くこと」を意味する語として現れている。コトバンク参照
^ 山尾は「連」字を用いる理由について連続(豆々企[注釈 6])の意味の連を宛てたらしいものとしている[20]。朝鮮において主張を意味する「連」が日本語のムラジと意味的に近かったため、この漢字表記が採用されたとする説もある[21]
^ 阿倍武彦は「奴」(ヤッコ)、あるいは貴人の尊称とも言われるが明瞭ではないと述べている[23]。山尾幸久は「宮ツ子」から来ており「宮の子」の意味であると解している[24]
^ 後に「アソン」、更に「アッソン」とも。
^ 小錦は大化3年(647年)の七色十三階冠制定の際に設置された冠位。途中変遷を経つつ、天智3年(664年)には(大小)織、(大小)縫、(大小)紫、大錦(上中下)、小錦(上中下)という位階になっていた[35]。小錦下以上がいわゆる上級の官人となる[36]
^ 公家の間で実名を使用する際、冠位に応じて敬称を付けるのが通例とされた。この継承は最上位が「公」(太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣)、次いで「卿」(参議および位階3位以上)、最後が「朝臣」(参議以外の位階4位以下)であった[61]。この「朝臣」はあくまで敬称でありカバネではない。
^ たとえば、 ⇒明治4年6月の『職員録・改』(国立公文書館アジア歴史資料センター ref.A09054276400)では、「従三位守大江朝臣孝允木戸」のように、位階・「行」(位階相当より低い官職の場合)または「守」(位階相当より高い官職の場合)・本姓・カバネ・諱に苗字を付記してある。なお、姓尸不称令が出された後の ⇒同年12月の『諸官省官員録』(同、ref.A09054276600)では、位階・苗字・実名と簡素化されている。
^ 明治維新直後、官名(大和守、弾正、摂津介、左近番長など)を通称(人名)として使用することが禁止された[63]。この際あらたに「名前」として通称が必要になった武士の間には実名(名乗)を通称とした者がいた。これは官名を「名前」とすることが武士の地位、身分的特殊性を外に示すものであったことと、武家ではない庶民の間では「実名」を普通設定していなかったことに関係している。士族による明治維新直後の実名(名乗)使用は官名に基づく旧来の「通称」が使えなくなったことに対応して、庶民の間では用いられない特別な「名前」である名乗(実名)を用いることで庶民との差異を示すという一種の代替処置であった[64]
^ これらは通説的には「臣」を帯びるのが自然である[82]
^ この理解に従えば、「連」を「造」を統括する古い職掌のカバネとする定義とは異なるものとなる。渡来(帰化)氏族は「造」姓のものが多く、全く連姓の氏族が見られないが、カバネが出自と結びついているとするならば、渡来氏族が神別のカバネである「連」を帯びず、基本的に「造」姓である場合が多いのは当然のものと理解できるという[83]

出典^ 中村 2009, pp. 6-7
^ 野田 2001, p. 2
^ a b c d 中村 2020, p. 25
^ a b 篠川 2015, p. 28
^山尾 1998, pp. 24-28
^ 阿部 1960, p. 17
^ 阿部 1960, pp. 20-21
^ 阿部 1960, p. 23
^ 阿部 1960, p. 24
^ 阿部 1960, p. 1
^ 中村 2020, p. 32
^ a b c 阿部 1960, p. 28

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