カバネ
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このような観点は近代歴史学のものではあるが、阿部武彦によれば既に大化の改新の頃にはそのような認識が存在したらしく、古代の詔勅の中には「基の王の名をかりて伴造(トモノミヤツコ)となし、祖の名によりて臣連となす」というものがある[17]。前者は王権に奉仕する名代子代のような集団が「造」のカバネを称していたことを、後者は有力な氏が祖先の出自に基づいて「臣」「連」を称していたということを意味すると考えられ、7世紀の人々がカバネについてこのような認識を持っていたことを示す[17]

しかし、これらのカバネが初めて登場するのはより古い時代であり、7世紀の記憶が史実を伝えていると見ることはできない。各カバネを有する氏族に見られる特徴から、カバネは古代の部民制の発達と密接な関わりを持って発展したもの見られ、「臣」「君」「連」「造」「直」などのカバネは与えられた基準が比較的はっきりしている[18]。以下、阿部武彦のまとめに従って代表的なカバネについて列挙する。
オミ
「臣」と表記される。畿内地方を中心に、地名を名とする氏(蘇我臣小野臣出雲臣吉備臣など)に多く見られ、その多くは地方的な豪族に由来を持つものと見られる。蘇我臣、和珥臣阿倍臣春日臣葛城臣など、古代において天皇の后妃を出した氏が多く、その数は他のカバネを圧倒している。これらのことから、古くは天皇(大王)と共にヤマト政権を連合的に形成した諸豪族を中心に臣姓が与えられたものと見られる。オミという言葉の意味は不明であるが、何らかの尊敬の意味を持った言葉であろうと言われている。「臣」という漢字が用いられた理由も不明である[19]
キミ
「君」「公」と表記される。いずれもキミと読むが「君」「公」は必ずしも同一のカバネではなかったと見られ、「公」字をあてるものは継体天皇の一族、および継体以降の皇別氏族に与えられている。上毛野氏下毛野氏関東)、綾氏四国)、のように遠隔地の半自立的な豪族が目立ち、関東九州北陸国造に君姓のものが多かったこともこの傾向を明らかにしている。筑紫君、火君のように、君姓氏族は臣姓氏族と同じく地名を氏の名とするものが多いのも特徴である。他に大三輪氏のような祭祀的な伝統を持つ氏族も君姓を名乗っており、「キミ」のカバネは概ね、継体以降に分かれた新しい皇別氏族、遠隔地の半自立的氏族、伝統的な地祇系氏族の三者に与えられたものと見られる[19]
ムラジ
「連」と表記される。この漢字表記の由来は不明瞭であるが[注釈 7]、ムラジという名称は元来「群主(ムレアルジ、あるいはムラウシ)」の意で、伴部の首長を表したものと見られる。後代では「祖の名によって」与えられたカバネとされるものの、中臣連物部連大伴連土師連、掃部連のように職掌を氏名とするものが多く、元来は中臣部、物部、土師部などの部民の長として天皇(大王)に奉仕していた人々のカバネであったと考えられる。時と共に職掌外の任務も担うようになりその中から有力氏族として台頭する氏も現れた[22]
ミヤツコ
「造」と表記される。宮ツ子、あるいは奴(ヤッコ)から来ているとも尊称であるとも言われる[注釈 8]。造姓を持つ氏族はほとんどが職業部、名代子代の伴造であり、基本的に伴部の首長のカバネであったと考えられる。同じく伴部の首長のカバネであったと見られる「連」との違いは明確にはわからない。「非常に大ざっぱ」(阿部)な区分としては、山部、海部、土師部などに典型的に見られるように地方に居住し現地で部民を統括していた長が「造」であり、この現地の長を中央で従える広義の伴造が「連」であったかもしれない(山部に対する山部連、海部に対する阿曇連など)。また、山部などと同じく地方に居住し長を持つが、中央の豪族ではなく官司に隷属しており、貢納よりも中央への上番を中心とする部民、例えば馬飼部、鍛冶部、史部、蔵部なども「造」姓のものが多い。このタイプの氏は基本的に渡来人(帰化人)であり、このため「造」のカバネは渡来系氏族に数多く見られる。この二つのタイプの伴部(品部)は前者の方がより古く、「連」によって統率される伴部は基本的に前者のものであり、より新しい後者の伴部の長には「造」しか存在しなかったと見られる。「造」「連」のカバネがこのように画一的に把握できることは、これらのカバネがある時期に(複数回)制定的に定められたことを示す[25]
アタヒ
「直」と表記される。「費」「費直」と書くこともあり、アタエとも読む。語源については、アタは「貴」、エは「兄」を意味するとも、朝鮮語で上長の意味とも言われる。「直」字が使用された理由は不明瞭であるが「番人」の意味であり、地方の長官としての役割を示すとも考えられる。国造のカバネに良く見られるが、全ての国造が直姓であったわけではなく、主に近畿吉備出雲以外の中国地方四国東海道関東南部に直姓の国造が広がっていた。関東北部や九州の国造には君姓のものが多く、吉備と出雲の国造は臣姓である。ヤマト王権は征服された地方豪族を完全に滅ぼすことは少なく、概ね国造として地位を認め支配したと見られ、そうした地方豪族に「直」のカバネが与えられていったものと見られる。
オビト
「首」と表記される。首姓氏族には大きく3類型がある。1つは伴部(山部首、海部首、忌部首など)で、例外はあるが地方に居住して現地の部民を統括する地方有力者である。2つ目は渡来人(帰化人)系氏族(西文首、馬飼首、韓鍛冶首など)で、官僚的な職位によるものと見られ職掌名を氏の名とする。3つ目は屯倉(ミヤケ)の管理者、県主稲置であり、地名を氏の名とする(例えば大戸村の屯倉の管轄者が大戸首、志紀県主が志紀首とされるなど)。「首」姓氏族全体に共通して地方村落の首長という性質が見られる[26]
八色の姓

天武天皇13年(684年)、八色の姓(やくさのかばね)の制定が行われた。これは「『氏姓』変革の歴史に於いて画期的な事件として注目されている[27]。」(阿部)この時の詔では旧来の諸氏の族姓を改めて、上位から順に真人(マヒト)・朝臣(アソミ[注釈 9])・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種のカバネを与えることが宣告された[27]

この族姓改革の理由、意図については様々に論じられており、大化の改新以来の対氏族政策の最終的な処置として、古い氏姓制度を新しい体制の中に取り込むために行われた、または古い姓に付随した政治的特権を整理し新しい体制を構築するためのものであったなどの見解がある[28]


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