カネボウ_(1887-2008)
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その後1961年には、化粧品事業を鐘化から買い戻し(現・カネボウ化粧品)、1964年には、ガムメーカーのハリス(現・クラシエ フーズカンパニー)を買収して食品事業に進出、1966年には、山城製薬を買収して薬品事業(現・クラシエ 薬品カンパニー)に参入するなど、非繊維事業に進出していった(グレーター・カネボウ計画)。この間、創業地の紡績工場は1963年に化粧品工場に転換し、1969年には閉鎖された[3]。また経営面では、1958年の経営危機を機に、労使運命共同体路線が確立した。1968年、武藤絲治は会長に退き、45歳の伊藤淳二が社長に就任する。
ペンタゴン経営の絶頂と終焉

社長に就任した伊藤は、武藤絲治のグレーター・カネボウ計画を引き継ぎ、労使運命共同体論=労使協調、ペンタゴン経営=多角化路線(繊維・化粧品・食品・薬品・住宅の5事業からなる[4])を推進した。特にペンタゴン経営で生まれた化粧品事業は、1970年代高度経済成長期から1980年代安定成長期にかけて、猛烈な営業攻勢と人気タレントを起用した宣伝広告で売り上げを伸ばし、業界首位の資生堂を追い上げていった。

しかし、この経営路線は後々のカネボウにとって不幸となった。労使協調路線は経営不振時に整理解雇の足かせとなり、代わりに自然退職と採用抑制によって人員整理が行われたが、抜本的なリストラには踏み切れなかった。一方のペンタゴン経営は化粧品以外はいずれも業界では中途半端な規模に留まる不採算事業となり、取り分け創業以来の業種である繊維事業は毎期損失を計上していた。しかし他事業が赤字でも、化粧品事業がそれを補って余りある高収益を上げていたため、社内から経営上の危機感と経営刷新を行う意欲を喪失させた。

1973年(昭和48年)に発生したオイルショックは、カネボウのみならず繊維業界全体に影響を与えた。カネボウはこの事態に対処するため人員の削減、工場の閉鎖・機能移転や不採算事業の撤退、子会社を吸収合併するなどの経営改革に取り組んだ。その結果1983年には8年ぶりの復配となった。1984年、伊藤は後継社長に岡本進を指名し会長に退いた。

新社長に就任した岡本の元、従来のペンタゴン経営に変わる21世紀への経営ビジョンとして情報システム、エレクトロニクス、機能性高分子、バイオテクノロジーを中心としたプレセンチュリー計画を打ち出し、1988年には創業110周年にあたる1997年までにグループ売上高1兆円、経常利益500億円を目標とした110計画がスタートした。折からのバブル景気によって売上が増加したが、新規事業に参入した結果、設備投資のための借入金が増加した。バブル崩壊期の1992年、伊藤は名誉会長に退き経営の第一線から退いた。

ちなみに伊藤はカネボウでの実績が評価され、1985年には日航ジャンボ機墜落事故で経営再建が急務だった日本航空の会長に抜擢される。しかし、労使対立が激しい日航では得意の労使協調路線は受け入れられず、結果を出せぬまま1年余りで政府により更迭された(この状況は山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』に詳説されているが、本作は、伊藤について脚色が多いといわれる)。
相次ぐ分社化と子会社の合併

バブル崩壊後、カネボウは事業の一部分社化や子会社同士の合併を進める。1993年には食品本部が分社し、同時にベルフーズと合併しカネボウフーズを設立。1994年にはストッキング事業、1995年には椎茸事業、1996年1997年には綿・羊毛・合繊事業、化粧品事業の一部をそれぞれ分社化。1998年にはカネボウシルクエレガンスを本体に吸収合併した。1999年には医療用新薬事業・化成品事業、2000年には情報システム事業をそれぞれ営業譲渡した。

1998年に社長に就任した帆足隆は、カネボウでは全くの傍流だった。1961年に松山商科大学卒業後、カネボウの大阪の子会社・カネボウ化粧品販売に入社。猛烈な営業で頭角を現し、30代で支配人に抜擢されていた。

その活躍ぶりが伊藤の目に留まり、本社に登用。その後もノルマ強化で化粧品事業を増収増益させ、成果を引っ提げての社長就任だった。歴代社長は「慶大卒・本社管理部門出身者」(前述の武藤親子、伊藤はこの条件に当てはまる)が占める中で、傍流の「地方大学卒・子会社出身者」である帆足の抜擢は、まさに異例中の異例だった。
繰り返される粉飾、産業再生機構傘下へ

売上目標必達を厳命したものの、繊維をはじめとする他の事業の赤字を化粧品事業の黒字が補完する収益構造が続き、過酷なノルマ達成ももはや不可能となっていた。帆足は「モーニングコーヒーから夜の盛り場まで一緒だった」と評される宮原卓副社長と話し合い、2001年度の債務超過を隠すため、粉飾決算を繰り返すことになる。

バブル崩壊以降、粉飾決算が繰り返されたのは、それを黙認する企業風土に加え、2000年3月期から導入された連結決算を重視する、新会計基準(実質支配力基準)も大きく影響していた。連結決算により、最終利益が赤字で債務超過に陥っていることが判明すると銀行融資が不可能になり、また上場廃止も確実だったためである。

平成14年3月期決算 [5]セグメント営業利益 (百万円)
化粧品25,646
ホームプロダクツ6,995
繊維△8,620
食品2,272
薬品△1,106
その他△995
連結23,816

2002年度決算では、業績不振の子会社15社を含めた連結決算書作成を義務づけられ、約260億円の赤字を7000万円の黒字に、約1900億円の債務超過を9億2600万円の資産超過に粉飾した有価証券報告書を提出し[5]、翌年度も同様の手口で粉飾を繰り返した。しかし、こうした架空売り上げはいたずらに損失を累積させ、抜本的な改革は先送りされた。結局、2003年度決算で3553億円にも及ぶ債務超過につながることになる。

2004年、最後の自主再建策として化粧品部門の花王への売却が発表されるが、労働組合の反対で頓挫した。以後、経営は迷走を続け、同年、産業再生機構の支援を受けることになった。産業再生機構は、当初カネボウおよびカネボウ化粧品の一体再生を目的として減資を強行するが、後に一体再生を撤回し、分離再生の方針に変更する。

2005年5月、東京証券取引所および大阪証券取引所がカネボウ株の上場廃止を決定。上場最終日は6月10日、廃止日は6月13日となった。また7月29日には、帆足元社長、宮原元副社長ら旧経営陣が証券取引法違反で逮捕されている。同年9月13日には同社の会計監査にあたっていながら、粉飾決算を指南していた中央青山監査法人公認会計士4名も証券取引法違反で逮捕された(これにより中央青山監査法人は2006年に金融庁から業務停止命令を受け、後に解散に追い込まれた)。

2006年2月、カネボウ化粧品の花王への売却に伴い「カネボウ」の商標権がカネボウ化粧品に譲渡された。これにより、残ったカネボウ本体を買収した投資ファンド傘下での事業は、新たなブランド名の「クラシエ」に切り替えられた。

2006年5月1日には、カネボウは営業権をカネボウ・トリニティ・ホールディングスに譲渡し、同社を統括会社とする、新カネボウグループとして再スタートを切った。なお、旧カネボウとカネボウ・トリニティ・ホールディングスには資本関係はなく、完全に独立した別会社である。カネボウからの営業譲渡に関する争いについては、下記の再生ファンドと少数株主の対立を参照
カネボウ解散、会社消滅

このように経営破綻寸前となったカネボウは、2007年4月27日に取締役会にて、カネボウ株式会社の解散を定時株主総会にて上程することを決議。2007年6月28日、第90回定時株主総会開催。多数の質問が出たが、解散を含む議案が採決される。

2007年6月30日にカネボウとしての最終営業日を迎え、この日をもってカネボウは解散し、120年にわたる歴史に事実上の終止符が打たれた。経営破綻は寸前で免れたものの、実質的にはほとんど経営は破綻していた状況であった。

カネボウ株式会社は海岸ベルマネジメント株式会社に商号変更。清算業務のみを行う会社として、残余資産を株主に配分する等の処分を進め清算に向かっていたが、清算結了による消滅ではなく、筆頭株主のトリニティ・インベストメントに2008年11月11日付で合併され、名実共にカネボウの法人格は消滅した。この合併に際して、(存続会社の株式割当ではなく)合併交付金の交付が行われたが、その金銭交付額が2006年のTOBよりもさらに少額となる1株あたり130円であったことに対して、海岸ベルマネジメントの株を83%を保有するトリニティ・インベストメント以外の株主からさらなる反発を受けた。

2007年7月1日には、カネボウの事業を承継していたカネボウ・トリニティ・ホールディングス、カネボウホームプロダクツ、カネボウフーズ、カネボウ製薬、カネボウ薬品の各社が、クラシエホールディングス、クラシエホームプロダクツ、クラシエフーズ、クラシエ製薬、クラシエ薬品へ、それぞれ商号変更している。2023年10月1日にはグループの再編が行われ、クラシエホームプロダクツ・クラシエフーズ・クラシエ製薬の3社はクラシエHDに吸収合併された上で「クラシエ株式会社」に、クラシエ薬品はクラシエの子会社になる。
沿革カネボウの沿革についてはクラシエの項目を参照
旧カネボウとクラシエの関係

カネボウブランドは、
花王グループ入りしたカネボウ化粧品が保有しているため、クラシエはブランドを引き継いでいない。

法人格も旧クラシエホールディングス・旧クラシエホームプロダクツ・旧クラシエ製薬の3社は、各事業を事業譲渡によってファンドの用意した受け皿会社に引き継いだものであり、法人格を引き継いでいない。クラシエ薬品など他の子会社については、カネボウの子会社が株式譲渡されたものである。

以上の点から、クラシエは旧カネボウとは独立の会社となっているが、カネボウの事業を継続する目的で用意された法人だったため、事業譲受当初のクラシエグループ各社はカネボウを名乗っていたこと、同一の本社・経営者で事業を継続していること、現在でもクラシエの公式サイトでは、カネボウ創業(1887年)以来を会社の歴史としていることから、歴史的にも資本関係は一切ないものの実質的にカネボウを継承した会社である。


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