他方、エキュメニズム(教会合同運動)の進展が皆無というわけではなく、たとえば日本聖書協会によって1987年(昭和62年)に刊行された『新共同訳聖書』は、日本におけるカトリック関係者とプロテスタント諸派の関係者らの共同作業によって翻訳され編集されたものである(ただし新共同訳聖書に日本正教会は参加していない)。また日本におけるカトリック教会では、2000年(平成12年)2月15日から日本聖公会と同じ「主の祈り」の日本語翻訳が使用されている[31]。 2010年3月、『ニューヨーク・タイムズ』が、ベネディクト16世自身が枢機卿在任時代、司祭による虐待事件をもみ消していたという疑惑を報じたことにつき教皇側が強く反発したことから、同年3月28日には英国首都ロンドンで教皇の退位を要求する抗議デモが行われた。 また、近年一部の聖職者が児童に対して性的虐待をしていた事実が判明し、カトリック教会の一大スキャンダルに発展している。詳細は「カトリック教会の性的虐待事件」を参照 宗教改革以来、プロテスタントから、教皇の首位権・使徒継承性に対して「『聖書』の曲解、根拠なき伝承(聖伝)に基づくもの」と批判されている。同様にプロテスタントが『聖書』に根拠を持たないと主張する「秘跡」や「マリア崇敬・聖人崇敬[注 13]」について批判を受ける。歴史的には、カトリック教会が封建領主として君臨したこと、宗教改革の端緒を開いたマルティン・ルターによって、聖遺物崇敬・贖宥状(免罪符)発行を批判されたが、対抗改革によって中止された。一方、改革の中で原理主義的姿勢が強まって「禁書目録」の作成がなされたが、このような動きは学問の自由や言論の自由を求める学者と衝突を招いた。 啓蒙主義者にとっては、カトリック教会による社会生活の支配は克服すべき課題であった。フランス革命ではマクシミリアン・ロベスピエールが宗教を廃止し、「理性」(あるいは、「最高存在」)に対する崇拝をそれまでの宗教に代わるものと位置付け、「理性の祭典」を行なった。このような過程を経て、カトリック教会は寛容政策に転換し、信徒や聖職者が他宗教の祭祀・儀式に列席することも認められるようになった。しかし、21世紀においても(プロテスタントの保守的な教会同様に)胎児も含めた、かけがえのない生命を尊重するという崇高な理念に基づき人工授精や妊娠中絶、避妊、同性愛(ただし、同性愛的行為は禁じられるが、同性愛的性志向自体は否定されない)、ES細胞研究への反対姿勢は変えておらず、この点を批判されることがある(ただしこれらについては他教派やプロライフの関係者にも賛成する者がおり、賛成者とカトリック教会が連携することもある。一例としてマンハッタン宣言を参照)。「妊娠中絶の支持者には聖体の秘跡の授与を制限すべきだ」という教会関係者の発言が物議を醸しており、一種の教条主義とも揶揄されている[誰?]。 なお、プロテスタントや聖公会の中には“教会内における女性の首位権”(女性聖職者または女性牧師)を認める教会もあるが、カトリック教会では女性は司祭に叙階されない。教義上、聖職者になれるのは男性信者に限られている。フェミニストの中にはこれに対する批判を行う者もいるが、カトリック教会側はあくまでも教義に基づく制度であるから「女性蔑視」ではないと説明している。また、聖職者には世俗の権力は一切存在しないので「女性差別」とは言いがたい、との説明もあるが、国や地域、組織によっては、聖職者が世俗的な権力行使に関わったり、その言動が世俗の権力に大きな影響を及ぼしたりする例もあり、至当とは言えない。また、かつては女性助祭、旧約聖書時代には女性預言者も存在したこともあり、この制度が復活することがないとは言えない。
日本におけるカトリック教会詳細は「日本におけるカトリック教会」を参照
カトリック教会での事件
カトリック教会への批判
カトリック教会が影響した出来事「キリスト教徒による宗教的迫害」も参照
異教徒や非カトリック圏に対する事柄
1096年:民衆十字軍は東上の途中でユダヤ人を各地で虐殺した。
1096年 - 1099年:第1回十字軍はイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺と略奪を行う。
1198年、北方十字軍。1193年に教皇はバルト海沿岸の異教徒に対する十字軍を布告し、1198年に十字軍の使節団がリヴォニア(現在のラトビアのリガ湾に囲まれたところ)に上陸した。
1204年:第4回十字軍において、当初の目的であった聖地には向かわず、同じキリスト教国であった東ローマ帝国を攻略(コンスタンティノープル包囲戦 (1204年))。ギリシア人住民2000人以上が死亡した。
1493年:コロンブスの率いるスペイン軍は、数ヶ月で5万人以上のインディアンを殺害した。以後10年間にわたり毎回数千人の住民を殺害する。「アメリカ大陸の発見#コロンブスによる「発見」」も参照
1521年、エルナン・コルテスはメキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した。アステカ帝国の征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、アメリカ先住民の人口は100万程度になっていた(「アステカ#植民地時代の人口減少」参照)。
1533年、スペイン人のコンキスタドールにインカ帝国は滅ぼされる。
正統派信仰と異端信仰関連
1209年 - 1215年:アルビジョア十字軍は約1万人の住民をカタリ派であるか否かにかかわらず無差別に殺戮した。
1633年:地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは第2回の裁判で有罪となる。地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文をガリレオは読み上げた[注 14]。
バチカンの国家財政管理を行う組織である「宗教事業協会」のこと
2013年5月22日、独立機関の聖座財務情報監視局は、2012年の金融取引において6件のマネーロンダリングの疑いがあると発表した。