1939年9月、ポーランドはドイツとソ連の両国によって攻撃され、全土が占領下に置かれた[10]。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、赤軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた[10]。
ポーランド政府はフランスのパリへ脱出し、亡命政府を結成、フランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更に亡命先のイギリスのロンドンへ移された[29]。
1940年2月末には、ポーランド軍捕虜の処刑が決定され、1940年3月5日にラヴレンチー・ベリヤが、ポーランド軍捕虜に銃殺刑を適用すべしとする書類をスターリンに提出する[30][31]。対象となった捕虜は主に予備役からなる軍人で、職業は官吏、地主、教授や医者など様々だった[31][32]。書類は、スターリン、ヴャチェスラフ・モロトフ、ベリヤ、ラーザリ・カガノーヴィチ、クリメント・ヴォロシーロフ、ミハイル・カリーニン、アナスタス・ミコヤンが承認した[33]。
1940年9月17日の赤軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった[34]。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した[34]。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった[35]。
1941年6月の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった[34] [36] [37]。しかしヴワディスワフ・アンデルス中将の元に集結した兵士は将官は14人中2人、高級参謀将校は300人中6人、将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たず、15,000人の兵士が行方不明であることがわかった[38] [39]。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側の回答は一貫しなかったりか、無回答であったり、回答が得られたとしても、全員釈放済みであるが事務や輸送の問題で滞っているという回答もあった[40][41]。10月15日、亡命政府首班のヴワディスワフ・シコルスキがロンドンにあるソ連大使館の大使に行方不明となっている捕虜について書簡をしたため、1ヶ月後回答を得られたが、釈放したとのことだった[42]。11月14日、ソ連に駐在しているポーランド大使がスターリンと面会することに成功する[42]。この時は、スターリンは受話器を持ち上げ、NKVDに確認の電話をし、釈放したが全員ではないそうだと回答した[42]。12月3日には亡命政府首班ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、彼は「ソ連側は確かに釈放したが、脱走して満州に行ったか、ソ連国内に潜伏しているのではないか」と回答した[43] [44][36]。 ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク
捕虜の取扱い