カタール
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世界第3位の天然ガス埋蔵量と石油埋蔵量を背景に、高所得者層が多い経済国である[9]。カタールは世界有数の液化天然ガス輸出国であり[10]、一人当たりの二酸化炭素排出量は世界一である[11]

21世紀には、カタールはその資源とメディアグループであるアルジャジーラ・メディア・ネットワークを世界的に拡大し[12][13]アラブの春にはいくつかの反政府勢力を財政的に支援したと伝えられており、アラブ世界のミドルパワーとして台頭している[14][15][16]。カタールは湾岸協力会議の一員である。カタールの人権記録は、結社の自由表現の自由報道の自由といった市民の自由に対する制限や、国内のプロジェクトのための強制労働に相当する数千人の移民労働者の扱いなど、学者や非政府組織から総じて低いとみなされている[17][18]2022年FIFAワールドカップは、賛否両論ある中でカタールに決定し、アラブ諸国初、中東初の開催地となった[19]。カタールは2006年アジア競技大会を開催し、2030年アジア競技大会も開催する予定である[20]
国名

正式名称はアラビア語で???????? ?????(Dawlat Qa?ar ダウラト・カタル)といい、通常は単に???(Qa?ar [?q?t??r] カタル)と称する。なお、現地のアーンミーヤでの発音はギタル(Gi?ar [???t??r])に近い[21]

国名の由来には複数通りあり、

イスラーム以前の古い時代に書かれた西洋の記録において一帯がCataraと呼ばれ[22]ており、そのアラビア語当て字である????????(Qa??r?、カターラー)もしくは????????(Kat?r?、カターラー)が国名の元となった

といった説が知られている。後者に関してはカタールのドーハにある文化村????????(Kat?r?、カターラー)の施設名ともなっている。

英語での公式国名はState of Qatar、通称 Qatar(英語発音: [?k??t??r] カーター、[?kat??] キャター)。世界の国と地域の中で、唯一“Q”で始まる英語国名である。国民・形容詞は Qatari([k??t??ri])。

日本語では「カタール国」「カタール」「カタル」と書かれる。漢字表記は華太瑠.
歴史詳細は「カタールの歴史(英語版)」を参照

カタールでは、紀元前3000年から紀元前2000年ごろの遺物が見つかっている。また、ペルシャ湾での真珠採取の産地として古代から知られてきた。
オスマン帝国の進出

1825年にカタール王家サーニー家(?l-Th?n?)の創始者サーニー・ビン・ムハンマドがビダウ(????? al-Bida‘、現在のドーハ)を治めるカタールのハーキム(英語版)に選ばれた。バーレーンハリーファ家(?l-Khal?fa)が1868年まで北カタールを治めていた。その年、カタール貴族の依頼によりイギリスの仲介でバーレーンの主張を取り下げさせたが、オスマン帝国がカタールを占領した。
帝国の撤退と英国の支配

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国が撤退したあとはイギリスの実効支配の下、3代目カタール首長(アミール)・アブドゥッラー・ビン・ジャースィム・アール=サーニー(英語版)をシェイクとした自治権を認めた。イギリスとカタール間の1916年の条約は、イギリスとその他のペルシャ湾諸国の条約と同じく、イギリスの承認なく自国領の変更は認めず、諸外国との外交関係も一切認めないというものだった。その代わりイギリスは海上からの侵攻に対しては保護を与え、陸上からの攻撃に対しては支援を与えるという内容だった。

1934年の条約はさらにイギリスからの保護を強化したものだった。赤線協定に基づいてアングロ・イラニアン石油会社(英語版)(AIOC)からイラク石油会社(英語版)(IPC)に石油利権が譲渡されると、1935年に英蘭仏米の共同国益会社「Petroleum Development (Qatar) Ltd[注 1](PDQ)」に対し、カタールでの75年間の石油掘削権を承認。1940年には高品質の石油が、カタール半島西岸で発見された。第二次世界大戦のため1949年まで石油輸出は行われなかった。
オイルマネーによる繁栄

4代目首長であるアリー・ビン・アブドゥッラー・アール=サーニー(英語版)のもとで、1950年代から1960年代にかけて、この石油がカタールに繁栄と社会進化をもたらし、近代化の始まりとなった。
独立

1960年に5代目首長アフマド(英語版)が就任。1968年に発表されたイギリスのスエズ運河以東撤退宣言に伴い、イギリスの保護領トルーシャル・オマーン(Trucial Oman:休戦オマーン。トルーシャル・コーストTrucial Coast:休戦海岸とも。のちにアラブ首長国連邦(UAE)となる勢力)は、1971年の独立を目指してアラブ首長国連邦(Federation of Arab Emirates:FAE)を結成した。当時は首長国が単独で独立国家となるのは難しいと考えており、カタールやバーレーンもその一員としてFAEに含まれていたが、すでにカタールとバーレーンは石油生産の好調で単独独立が可能な状態になっていた。他首長国との利権問題もあってカタールとバーレーンは近隣国のサウジアラビアやアラブ首長国連邦の一部になることを断り、カタールは1971年9月3日に単独で独立した。同年9月11日にアラブ連盟に、21日に国際連合に加盟した。
湾岸戦争

1972年、父であるアフマド(英語版)首長の外遊中に、ハリーファが無血クーデターを起こして政権を奪取(6代目首長)。1988年にはソビエト連邦および中華人民共和国とそれぞれ外交関係を結んだ。OPEC(石油輸出国機構)の初期からの加盟国であるが、天然ガスの生産に注力することを理由として[23]、2019年1月1日をもって脱退した[24]。また、湾岸協力会議の原加盟国である。1990年湾岸戦争では、反イラクの立場をとった。
無血クーデター

1995年に首長であるハマドが、父であるハリーファの外遊中に無血クーデターを起こして政権を奪取(7代目首長)。ハマドは、政権を奪取して以降、天然資源のみに頼った経済体制を危惧して、観光産業の育成などに着手している。かつてはハリーファの閉鎖的な政策の影響で宿泊施設すらほとんどなく、「世界一退屈な都市」とまで言われた首都ドーハにもさまざまな娯楽施設などが建設され、賑わいを見せている。また、衛星テレビ局アルジャジーラが、彼のポケットマネー(1億5,000万USドル)で設立された。1996年から湾岸諸国の中で唯一イスラエルの通商代表部が置かれていたが、2009年に閉鎖された[25]
タミム首長

2013年6月25日、ハマドが四男のタミーム・ビン・ハマド・アール=サーニーに譲位し、タミームが首長となる。
政治詳細は「カタールの政治(英語版)」を参照
元首アルゼンチンマウリシオ・マクリ大統領と会談するタミーム首長(左、2016年7月28日)詳細は「カタールの元首一覧」を参照

カタールはサーニー家(?? ????、?l-Th?n?)による首長制君主制の一種)である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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