カタール
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1971年9月3日
通貨カタール・リヤル (QR)(QAR
時間帯UTC+3 (DST:なし)
ISO 3166-1QA / QAT
ccTLD.qa
国際電話番号974
1966年から1976年までの国章

カタール国(カタールこく、アラビア語: ???????? ?????‎、Dawlat Qa?ar、ダウラト・カタル)、通称カタールは、西アジアに位置する国家。中東アラビア半島北東部に位置するカタール半島を領土とし、南はサウジアラビアと国境を接し、残りの領土はペルシャ湾に囲まれている。ペルシャ湾の入り江であるバーレーン湾が、カタールとバーレーンを隔てている。首都は国民の8割以上が住むドーハで、国土の大部分は平坦な低地の砂漠で構成されている。

1868年にムハンマド・ビン・サーニーがイギリスと条約を結び、独立国としての地位を認められて以来、カタールはサーニー家による世襲君主制国家として統治されてきた。オスマン帝国の支配を経て、20世紀初頭にはイギリスの保護領となり、1971年に独立した。現在の首長はタミーム・ビン・ハマドで、カタール憲法に基づき、行政・立法のほぼすべての権限を持ち、司法も支配している[3]首相と内閣は首長が任命する。一部選挙で選ばれた諮問評議会は、立法を阻止することができ、大臣を解任する能力も限られている。

2017年初頭、カタールの総人口は260万人で、そのうち31万3000人がカタール国民、230万人がエクスパットである[4]。公式の宗教はイスラム教である[5]。所得面では、一人当たりのGDP(PPP)が世界第4位[6]、一人当たりのGNI(アトラス方式)が世界第11位[7]。カタールの人間開発指数は42位で、アラブ世界では3番目に高いHDIである[8]。世界第3位の天然ガス埋蔵量と石油埋蔵量を背景に、高所得者層が多い経済国である[9]。カタールは世界有数の液化天然ガス輸出国であり[10]、一人当たりの二酸化炭素排出量は世界一である[11]

21世紀には、カタールはその資源とメディアグループであるアルジャジーラ・メディア・ネットワークを世界的に拡大し[12][13]アラブの春にはいくつかの反政府勢力を財政的に支援したと伝えられており、アラブ世界のミドルパワーとして台頭している[14][15][16]。カタールは湾岸協力会議の一員である。カタールの人権記録は、結社の自由表現の自由報道の自由といった市民の自由に対する制限や、国内のプロジェクトのための強制労働に相当する数千人の移民労働者の扱いなど、学者や非政府組織から総じて低いとみなされている[17][18]2022年FIFAワールドカップは、賛否両論ある中でカタールに決定し、アラブ諸国初、中東初の開催地となった[19]。カタールは2006年アジア競技大会を開催し、2030年アジア競技大会も開催する予定である[20]
国名

正式名称はアラビア語で???????? ?????(Dawlat Qa?ar ダウラト・カタル)といい、通常は単に???(Qa?ar [?q?t??r] カタル)と称する。なお、現地のアーンミーヤでの発音はギタル(Gi?ar [???t??r])に近い[21]

国名の由来には複数通りあり、

イスラーム以前の古い時代に書かれた西洋の記録において一帯がCataraと呼ばれ[22]ており、そのアラビア語当て字である????????(Qa??r?、カターラー)もしくは????????(Kat?r?、カターラー)が国名の元となった

といった説が知られている。後者に関してはカタールのドーハにある文化村????????(Kat?r?、カターラー)の施設名ともなっている。

英語での公式国名はState of Qatar、通称 Qatar(英語発音: [?k??t??r] カーター、[?kat??] キャター)。世界の国と地域の中で、唯一“Q”で始まる英語国名である。国民・形容詞は Qatari([k??t??ri])。

日本語では「カタール国」「カタール」「カタル」と書かれる。漢字表記は華太瑠.
歴史詳細は「カタールの歴史(英語版)」を参照

カタールでは、紀元前3000年から紀元前2000年ごろの遺物が見つかっている。また、ペルシャ湾での真珠採取の産地として古代から知られてきた。
オスマン帝国の進出

1825年にカタール王家サーニー家(?l-Th?n?)の創始者サーニー・ビン・ムハンマドがビダウ(????? al-Bida‘、現在のドーハ)を治めるカタールのハーキム(英語版)に選ばれた。バーレーンハリーファ家(?l-Khal?fa)が1868年まで北カタールを治めていた。その年、カタール貴族の依頼によりイギリスの仲介でバーレーンの主張を取り下げさせたが、オスマン帝国がカタールを占領した。
帝国の撤退と英国の支配

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国が撤退したあとはイギリスの実効支配の下、3代目カタール首長(アミール)・アブドゥッラー・ビン・ジャースィム・アール=サーニー(英語版)をシェイクとした自治権を認めた。イギリスとカタール間の1916年の条約は、イギリスとその他のペルシャ湾諸国の条約と同じく、イギリスの承認なく自国領の変更は認めず、諸外国との外交関係も一切認めないというものだった。その代わりイギリスは海上からの侵攻に対しては保護を与え、陸上からの攻撃に対しては支援を与えるという内容だった。

1934年の条約はさらにイギリスからの保護を強化したものだった。赤線協定に基づいてアングロ・イラニアン石油会社(英語版)(AIOC)からイラク石油会社(英語版)(IPC)に石油利権が譲渡されると、1935年に英蘭仏米の共同国益会社「Petroleum Development (Qatar) Ltd[注 1](PDQ)」に対し、カタールでの75年間の石油掘削権を承認。1940年には高品質の石油が、カタール半島西岸で発見された。第二次世界大戦のため1949年まで石油輸出は行われなかった。
オイルマネーによる繁栄

4代目首長であるアリー・ビン・アブドゥッラー・アール=サーニー(英語版)のもとで、1950年代から1960年代にかけて、この石油がカタールに繁栄と社会進化をもたらし、近代化の始まりとなった。
独立

1960年に5代目首長アフマド(英語版)が就任。1968年に発表されたイギリスのスエズ運河以東撤退宣言に伴い、イギリスの保護領トルーシャル・オマーン(Trucial Oman:休戦オマーン。トルーシャル・コーストTrucial Coast:休戦海岸とも。のちにアラブ首長国連邦(UAE)となる勢力)は、1971年の独立を目指してアラブ首長国連邦(Federation of Arab Emirates:FAE)を結成した。当時は首長国が単独で独立国家となるのは難しいと考えており、カタールやバーレーンもその一員としてFAEに含まれていたが、すでにカタールとバーレーンは石油生産の好調で単独独立が可能な状態になっていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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