カスピ海
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カスピ海は北部、中部、南部に分かれ、性質が大きく異なる。北カスピ海は北西部に位置するヴォルガ川から流れ込む膨大な土砂により、広大な湿地帯であるヴォルガ川三角州(デルタ)や大陸棚が発達しており[11]、非常に浅い。平均水深は5mから6mであり、最深部ですら10mは超えない[12]。水量はカスピ海全体の水量の1%にしかならない。浅い上にヴォルガ川などの多くの河川の流入によって塩分濃度が低く、さらに気候も最も寒いため、北カスピ海は冬季には70cmほどの厚さまで結氷する。中カスピ海に入ると水深は急速に深くなり、平均水深は190m、最深部は790mとなる。中カスピ海は全水量のうち33%を占める。南カスピ海は最も深く、−980mに達する地点もある。南カスピ海の水量は、全水量の66%を占める。

ヴォルガ川三角州(デルタ)には無数の支流が流れており、人の手が入りづらく、この地域は1919年にアストラハン自然保護区域に指定され、野鳥の楽園となっている[13]。湖の北から東にかけては中央アジア大草原ステップ)が広がる。特に北部には、海面下に位置する広大なカスピ海沿岸低地が広がっている。カスピ海沿岸低地は乾燥が激しく、特に北部のヴォルガ川とウラル川に挟まれた地域は、かなりの部分がルィン砂漠となっている[14]。一方、西部にはコーカサス山脈が延び、南岸にはアルボルズ山脈が走る。東岸ではマンギスタウ半島が大きくカスピ海に張り出しており、その南には非常に細い海峡でカスピ海と繋がれたカスピ最大の湾、カラ・ボガス・ゴル湾がある。この湾は平均水深10mと非常に浅く、また乾燥地域にあるために蒸発が激しく、カスピ海の水位を押し下げる役目を果たしてきた。1980年にカスピ海の水位低下を防ぐために海峡にダムが建設された(後述)際は湾は干上がり、周辺に塩害をまき散らした。また東岸はほぼ全域が乾燥地帯であり、カラクム砂漠などの砂漠が広がる。北東岸は冷たい大陸性の気候である一方、南岸や南西岸は山地の影響を受けるものの基本的に暖かな気候である。特にイラン領である南岸は、アルボルズ山脈でカスピ海からの風が降雨をもたらすため、年間平均降水量が1000mmを越える湿潤な気候であり、「緑のリボンの谷」とも呼ばれる。この地域では、小麦を中心とするイランの他の地域とはちがって、、それにを中心とする農業が盛んに行われている[15]。西岸にはアブシェロン半島が張り出しており、その南にはクラ川の流れるムガン低地(南カスピ低地)がある[16]

カスピ海には多くの島々がある。島はどれも沿岸近くに位置し、湖の中心部近くには全く存在しない。最も大きな島はオグルジャリ・アダシ島(ロシア語版、英語版)(トルクメン語: Ogurjaly adasy)で、他にホラズム・シャー朝の第7代スルタンアラーウッディーン・ムハンマドモンゴル帝国の侵攻から落ち延び、死亡した場所で知られるアバスクン島(英語版)(ペルシア語: ??????‎)などがある。

カスピ海湖上には多種多様な湖風が吹くが、中でも南風であるマリャーナは北部カスピ海に強く吹き、カスピ海沿岸低地に洪水を引き起こす[8]
沿岸都市

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出典検索?: "カスピ海" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年10月)
アクタウカザフスタンマハチカラダゲスタン共和国ロシア連邦バクーアゼルバイジャン

カスピ海沿岸で最も大きな都市は、アゼルバイジャンの首都バクーである。バクーはアブシェロン半島の南岸にある港湾都市で、12世紀から都市として栄え、18世紀にはイランとロシアの争奪が繰り返された。現在でも港湾都市かつ交通の要衝であるが、バクー最大の産業は石油産業である。バクー周辺にはバクー油田が広がっており、19世紀には世界の石油産業の中心として栄え、中東地域などの油田開発によってシェアの下落した現在でも、石油はバクー経済に重要な地位を占めている。バクーはカスピ海沿岸唯一の首都、ならびに唯一の100万都市である。バクーの北西30kmには、金属工業や化学工業の工場を持つスムガイトがある。また、アブシェロン半島の先端から55km沖合には、海上に建てられた杭によって支えられた人工島の上に、ニェフト・ダシュラル(ロシア名:ネフタニエ・カムニ)の街がある。バクー海上油田開発の拠点として1949年に建設されたこの町は、橋によって本土と結ばれ、人工基盤の上に建てられたビル群の中に2000人の住民が居住している。北西岸を占めるロシア領には、ダゲスタン共和国の首都であるマハチカラが大きい。また、マハチカラとアゼルバイジャンを結ぶメインルート上にあるデルベントは、ダゲスタン第2の都市でもある。北西端に近い所にあるアストラハンは、カスピ海からは90kmほど離れたヴォルガ川のデルタにあるが、カスピ海沿岸地域とは密接な繋がりがある。

北東部のカザフスタン領では、北端に近いアティラウと、東岸ほぼ中央のアクタウが大きな都市である。アティラウ(旧名グリエフ)はウラル川がカスピ海に注ぎ込む地点に位置し、1645年に砦が築かれて以降アストラハンと共にロシアのこの地方における拠点となっていた都市である。現在では、周辺の油田開発の拠点となっており、大きな製油所もある。アクタウ(旧名シェフチェンコ)は周辺の原油の積出港となっている。東岸のトルクメニスタン領では、トルクメンバシが最も大きな都市である。トルクメンバシは旧名クラスノヴォーツクと呼ばれ、カスピ海横断鉄道の起点として交通の要衝となっている。トルクメニスタン随一の港であり、石油の積出港であり、また製油所や化学工場も存在する[17]。南岸のイラン領では、ラムサール条約の締結地であるラームサルや、ラシュトの外港であるバンダレ・アンザリー、マーザンダラーン州の州都であるサーリーなどの都市がある。

カスピ海は国際水域であり、湖上交通や交易も盛んに行われている。トルクメンバシ港からは、ロシアのアストラハンやアゼルバイジャンのバクーへのフェリー便も就航している。また、黒海からドン川、ヴォルガ・ドン運河、ヴォルガ川を通って外洋との交易も可能であるため、特にカスピ海以外に外洋と接していないカザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンの3カ国にとってカスピ海の水運は重要であり、カスピ海の奥に位置するカザフスタン、トルクメニスタン両国にとっては輸出入においても重要な地位を占める。
石油開発アゼルバイジャンの海底油田ロシアの海底油田

カスピ海周辺には大量の石油が埋蔵されている。開発も古くから行われ、早くも10世紀には油井が掘られていた[18]。世界初の海上油井ならびに機械掘削の油井は、バクー近郊のBibi-Heybat Bayで建設された。1873年に、当時知られていた中では世界最大の油脈であるこの地方での近代的な油田の開発が始まり、1878年にはアルフレッド・ノーベルが二人の兄と共にノーベル兄弟石油会社を設立した。ノーベルのほか、後にカルースト・グルベンキアンを生むグルベンキアン家もバクー石油の有力な企業家だった。1900年にはバクーには油井が3000本掘られ、そのうち2000本が産業レベルで石油を生産していた。バクーは黒い金の首都と呼ばれ、多くの熟練労働者や技術者を引き寄せた。20世紀の幕が開けるころには、バクーは世界の石油産業の中心地となっていた。1920年にはボリシェビキがバクーを制圧し、すべての私有の油井は国有化された。1941年にはバクーを中心とするアゼルバイジャンの石油生産量は2350万トンとなり、ソビエト連邦の全石油生産の72%にも上った[18]


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