カスティーリャ王国
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1474年にイサベル1世が即位すると、アラゴン王太子である夫のフェルナンド5世を共同統治者とした。一方、ポルトガル王妃となっていたフアナ・ラ・ベルトラネーハもカスティーリャ女王即位を宣言し、カスティーリャはイサベル支持派とフアナ支持派とに分裂する。フアナ支持派とポルトガルの連合軍に対し、イサベル派とアラゴンの連合軍は戦闘に勝利し、1479年、ポルトガルはイサベルの王位継承を承認した。同年にフェルナンドもアラゴン王に即位し(アラゴン王としてはフェルナンド2世)、カスティーリャとアラゴンが同君連合となった。イサベルとフェルナンドは国内の反対派を討伐した後、1482年に、対グラナダ戦争を開始する。そして1492年、グラナダは陥落し、レコンキスタは終結した。

1504年にイサベルが死去すると、ハプスブルク家に嫁いでいた娘フアナが女王に即位、フェルナンド5世が摂政となった。1515年、ナバラ王国を併合し、イベリア半島はカスティーリャ=アラゴン連合王国(すなわちスペイン王国)とポルトガル王国の2ヶ国となった。
新大陸詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照

1492年クリストファー・コロンブス西インド諸島に到達。1494年にポルトガルとの間で締結されたトルデシリャス条約に基づき、カスティーリャ王国は、アメリカ大陸をその領土にする。
スペイン王国

フェルナンド5世が死去すると、孫のカルロス1世アラゴン、カスティーリャ両王に即位する。これにより、ハプスブルク朝スペインが成立する。ただしこの時点では、カスティーリャ王国はスペインを構成する国の1つとして、政治的に独自性を保持し続けた。カスティーリャ王国がスペイン王国に糾合され正真正銘消滅するのは、スペインが没落し、スペイン継承戦争を経てブルボン朝スペインが成立した後、フェリペ5世の時代に、遅まきながら国内の中央集権化が実施されたときであった。
参考文献

D.W.ローマックス
著、林邦夫訳『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』(刀水書房1996年ISBN 4-88708-180-4

立石博高編『新版 世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』(山川出版社2000年ISBN 4-634-41460-0

関連項目

カスティーリャ君主一覧

カスティーリャ家

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