カシミール
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カシミール紛争詳細は「カシミール紛争」、「中印国境紛争」、および「en:Timeline of the Kashmir conflict」を参照

1947年8月、それまでイギリス植民地のイギリス領インド帝国として1つのまとまりだった広大な地域が、植民地独立を契機に、ヒンドゥー教徒が多数派であるが多民族・多宗教の国是(ガンディーの「一民族論」)を掲げるインドと、イスラム教徒は別個の民族と見なすジンナーらの「二民族論」に基づきイスラム教を国教とするパキスタンの2つの国家に大きく分裂した。

このインド・パキスタン分離独立によって、それぞれ藩王国はいずれかの側に帰属することを迫られていた。しかし、カシミール藩王ハリ・シングは自身がヒンドゥー教徒、対して住民の80%はムスリム(イスラーム教徒)という微妙な立場にあり、独立を考えていた。パキスタンが武力介入してきたことで、ハリ・シングはインドへの帰属を表明し、インド政府に派兵を求めた。これが第一次印パ戦争印パ戦争)の発端である[6][7][8]。以後、この地域についてはパキスタンとインドが領有を主張し、これまで大小の軍事衝突(カシミール紛争)を繰り返し、第二次印パ戦争第三次印パ戦争、カールギル紛争(英語版)まで争っている[6][7][8]。また、インドは中国とも領有権を争い、カシミールとその東部地域のアクサイチンおよびラダックザンスカールバルティスターンで激しい戦闘となった(中印国境紛争)。その後、ほぼ中間付近に管理ライン(LOC)が引かれ[6]、2000年代後半にはインドはジャンムー・カシミール州を、パキスタンはアーザード(自由)・カシミール州ギルギット・バルティスタン(旧称:北方地域)を、中国はアクサイチン及びカラコルム回廊を実効支配することとなった[6][7][8]

1990年代に入るとパキスタンの支援を受けた過激派のテロが頻発し、治安部隊の過剰ともいえる反撃が続いた[6]

2002年の州議会選挙の時、ジャンムー・カシミールのヒンドゥー勢力が州を3分割してジャンムー州を建設すべきとの主張をした。また、ラダック地域では自治権拡大の要求が起きている。

2006年インド人観光客が戻り始めたが、それらの観光客を狙ったテロが横行した。

2014年にインドの首相に就任したナレンドラ・モディヒンドゥー至上主義者でカシミール問題でパキスタンに対して強硬路線を取り[9][10]、双方の砲撃や銃撃戦も起きるなど両国で非難の応酬がされ[11][12]2019年2月にはインドは48年ぶりにパキスタンの越境空爆(バーラーコート空爆)を行い[13]、パキスタン空軍とインド空軍がカシミール地方で空中戦を行ってパキスタンはインド空軍機2機、インドはパキスタン空軍機1機を撃墜したとそれぞれ発表して緊張状態になった[14]

同年8月5日、インド政府は国内で唯一イスラム教徒が多数派となっているジャンムー・カシミール州の特別自治権について規定していたインド憲法第370条(英語版)を廃止することを決定し、特別自治権を剥奪する大統領令を公布[15]してインターネット通信などを制限した[16]。また、インド政府は議会にジャンムー・カシミール州再編成法(英語版)を提出、かねてから特別自治権の撤廃を主張してきた[17]インド人民党の賛成で承認され、8月9日に成立した。これに対して抗議するデモ隊と治安部隊の衝突が起き[18]、住民に対する治安部隊の暴行や拷問もあったと報じられており[19]、パキスタンは人権侵害と反発した[20]

ジャンムー・カシミール州再編成法の規定により、ジャンムー・カシミール州は2019年10月31日付けで廃止され、ラダック連邦直轄領ジャンムー・カシミール連邦直轄領とに分割された[21][22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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