カザフは、カザフスタンの東部、中部、西部において、各々大ジュズ、中ジュズ、小ジュズという名で呼ばれる3つのジュズ(部族連合体)に分かれている。
大ジュズ[ソースを編集]
大ジュズは、カザフ語でウル?ジュス(又はウイスン)と呼ばれ、カザフスタンの南東部、アルマティ州、ジャンブール州及び南カザフスタン州に居住している。2000年までは、大ジュズが優勢なアルマ・アタ(アルマトイ)が首都だった。
大ジュズは、他のジュズよりもイスラム色が強く、伝統的なカザフ語、文化が最も良く保持されている。大ジュズは、現大統領のヌルスルタン・ナザルバエフ、ソ連時代の第一書記ディンムハメッド・クナーエフ等、多くの政治家を輩出しており、その結果、大ジュズ優先の政策が取られる傾向にある。
大ジュズの歴史[ソースを編集]
1845年、カパル周辺に居住する大ジュズの部族がロシア国籍を受け入れ、この地方がロシア帝国の注意を引く契機となった。ジュンガル部の陥落後、一部の部族は、中国の構成下に入った。
1840年代から、西のシルダリアと東のセミレーチエの両面からのロシアの侵攻が始った。シルダリアにはロシアの要塞が建設され、1853年、コーカンド・ハン国のアク・メチェチ(アク・メシット、現クズル・オルダ)要塞が奪取された。1854年にはヴェールヌイ要塞(アルマ・アタ)が築かれ、最初のコサック部隊が現れた。
1864年、ロシア軍により、アウリエ・アタ、チムケント、トルキスタンの要塞が奪取された。1865年までに、大ジュズが居住する全領域は、ロシア帝国に併合された。
大ジュズの部族[ソースを編集]
大ジュズは、11部族から成り、人口は、1989年のデータで約200万人だった。以下の11部族以外の小部族は、1931年から1932年の飢餓により消滅した。
ジャライル部族
オシャクトゥ部族
ドゥラト部族
スアン部族
アルバン部族
カンル部族
シャヌシュクル部族
サルウイスン部族
シャプラシュトゥ部族
スィルゲリ部族
ウストゥ部族
中ジュズ[ソースを編集]
中ジュズは、カザフスタンの中央と北東部、北カザフスタン州、東カザフスタン州、パブロダール州、カラガンダ州、アクモラ州、コスタナイ州に居住する。
ロシアに最も近く、住民は都会化されており、文化人を多く輩出している。カザフスタンは1997年に首都をアルマトイから中ジュズが優勢なアスタナに移転した。
中ジュズの歴史[ソースを編集]
1738年から1741年、ジュンガル部の部隊が、中ジュズ領域に侵入した。1740年、中ジュズ部族長、アブライ・ハーンとアブルマムベト・ハーンは、ロシア国籍を受け入れた。1757年、アブライ・ハーンは、清の権力も認めた。
中ジュズの部族[ソースを編集]
1989年のデータで、約300万人である。
アルグン部族 - 約50万人
ナイマン部族 - 40万人以上
クプシャク部族 - 14万?15万人
ケレイ部族 - 10万?11万人
ウアク部族 - 5万5千?6万人
タラクト部族 - 1万人
コヌラト部族 - 4万?4万5千人
小ジュズ[ソースを編集]
小ジュズは、アルシュンともいう。居住地域は、西カザフスタン州、アクトベ州、アティラウ州、マンギスタウ州等である。
1920年代の革命指導者の多くは、小ジュズ出身者だった。小ジュズの多くの者は、現体制に不満を持っており、独自のパラサト(理性)党を設立し、自治権の獲得を主張している。
小ジュズの歴史[ソースを編集]
1730年、小ジュズの集会は、ジュンガル部に対する軍事同盟をロシアと締結することをアブドゥル・ビーに要請した。ロシア帝国は、この要請を喜んで受け入れた。1731年、ロシアの使節団が到着し、アブドゥルは忠誠の宣誓を行った。
小ジュズの部族[ソースを編集]
以下の3大部族が有力で、150万人以下。1930年代の飢餓により大損害を被った。
アリムル部族
バイウル部族
ジェティルゥ部族
中国の自治地方[ソースを編集]
自治州[ソースを編集]
新疆ウイグル自治区
イリ・カザフ自治州
自治県[ソースを編集]
甘粛省
アクサイ・カザフ族自治県
新疆ウイグル自治区
バルクル・カザフ自治県
モリ・カザフ自治県
民族郷[ソースを編集]
クムル市伊州区
烏拉台カザフ民族郷
徳外里都如克カザフ族郷
アラトゥルク県
前山カザフ民族郷
昌吉市
阿什里カザフ民族郷
阜康市
三工河カザフ民族郷
上戸溝カザフ民族郷
フトビ県
石梯子カザフ民族郷
マナス県
清水河子カザフ民族郷
遺伝的系譜[ソースを編集]
カザフ人はモンゴロイドを基本として、コーカソイドの血が若干混ざる混合体である。