同時期に戦争の消耗によってマケドニアに対抗できなくなっていたアテナイは和議の必要性を熟考し始めた[15]。しかしながらピリッポスが紀元前346年に神聖戦争に再度介入することが明らかになったとき、アテナイは当初、マケドニア軍が数的優位を活かしにくいテルモピュライの峠を占領して防衛線を敷くことによって、同盟していたフォキスを助けることを計画した[16]。アテナイはかつて同様の作戦によってクロコスの戦いの勝利の後にピリッポスがフォキスを攻撃するのを阻止することに成功していた[17]。これは同時にピリッポスによるアテナイ自身への攻撃を防ぐ狙いでもあった。しかし2月の末にフォキスのファライコス将軍が復権し、アテナイ軍がテルモピュライに近づくことを拒否した[18]。防衛戦略が破綻したアテナイはマケドニアと講和することを余儀なくされた。ピロクラテスの講和(英語版)と呼ばれるこの平和条約によってアテナイはマケドニアと消極的な同盟国となった[19]。
アテナイ人にとってこの条約はそれほど不利な内容ではなかったが、評判は悪かった。紀元前346年の一連の行動によってピリッポスはギリシャ全土に影響力を広げるとともに平和をもたらしたが、伝統的な都市国家の自由に対する敵対者とみなされるようになった。弁論家にして政治家であったデモステネスはピロクラテスの講和の主要な創案者の一人だったが、合意直後に彼は条約に反対する立場に転じた[20]。数年のうちにデモステネスはアテナイの主戦派の指導者となり、支持者たちと共にマケドニアのあらゆる遠征と行動を口実として、ピリッポスが平和を破っていると主張し続けた[21][22]。逆に言えば、これは当時のアテナイで平和条約を維持するべきと主張するアイスキネスらも一定の勢力を持っていたことを示している[23]。しかし最終的には主戦派が優勢となり、ピリッポスに対する挑発が始まった。紀元前341年にアテナイのディオペイテス将軍がピリッポスの制止要求を無視してマケドニアと同盟関係にあったカルディアを攻撃した[24]。続いて当時マケドニア軍に包囲されていたビュザンティオンとアテナイが同盟を結んだことによってピリッポスの忍耐は限界を迎え、アテナイに宣戦布告を行った[25]。その直後ピリッポスはビュザンティオンへの包囲を解いており、アテナイへの対処に集中することを決めたのだと考えられている.[26]。ピリッポスはスキタイ人への対応を行った後に、アテナイとの戦争の準備に移った[27]。
戦いまでの経緯紀元前339-338年におけるピリッポス2世の進軍ルートを示した地図
ピリッポスは同時期に始まった第四次神聖戦争を利用した。ロクリス・オゾリスのアンフィサの市民たちがデルポイの南にあるアポロンの聖域で耕作を始めたことに反発したデルポイの隣保同盟はアンフィサに対する神聖戦争を宣言し、第四次神聖戦争が始まった[28]。テッサリアの代表者は、ピリッポスを隣保同盟軍のリーダーにするべきだと提案し、ピリッポスはギリシャ南部に進軍する口実を得た[28]。
紀元前 339 年の初めに、テーバイ軍はテルモピュライ近くのニカイアの町を占領した[28]。ピリッポスはこれを宣戦布告とは見なさなかったようだが、主要な進軍ルートを遮断される形になった[28]。この時カリドロモス山の肩を越えてフォキスに下る、中央ギリシャへの第二のルートが存在した[28]。アテナイ人とテーバイ人は、この道の存在を忘れていたか、ピリッポスがそれを使用しないと信じていたためこのルートに防衛戦力を配置せず、マケドニア軍が妨害されることなく突破することを許してしまった[29]。
第三次神聖戦争に続いてピリッポスはフォキス人に対して寛容な態度をとり、エラテアに到着すると都市に再居住するよう命じ、数か月でフォキスを復興させた。これにより、ピリッポスはフォキス人の忠誠心を獲得し、ギリシャでの拠点となる新たな同盟国を手にした[29] 。ピリッポスはおそらく紀元前 339 年 11 月にフォキスに到着したが、それから紀元前338 年 8 月まで大規模な戦いは発生しなかった。この期間中にまずピリッポスはアンフィサの問題を解決して隣保同盟評議会への責任を果たした。 彼はフォキスからアンフィサへの道を守っていた 10,000 人の傭兵部隊をだまして持ち場を放棄させ、アンフィサを占領して市民を追放し、デルポイに引き渡した[30]。彼はおそらく同時に、更なる戦争を回避するために外交的決着を試みたが失敗に終わった[29] 。
進軍からわずか3日後、ピリッポスがエラテアに到着したという知らせが届き、アテナイはパニックに陥った [31] 。デモステネスはテーバイとの同盟を模索すべきであると提案し、自ら大使として派遣された[31]。ピリッポスもまたテーバイに使節を送り、彼に味方するか、少なくともマケドニア軍が自由にボイオティアを通過できるようにすることを要求した [30] 。テーバイはまだマケドニアと正式に戦争状態になっていなかったので、紛争を回避する余地は残されていた[31] 。しかし、伝統的にアテナイと敵対していたテーバイは、マケドニア軍の圧力を受ける状況下においてギリシャの自由のためにアテナイと同盟を結ぶことを選んだ [30] 。アテナイ軍はすでに先んじてボイオティア方面に派遣されていたため、同盟の合意から数日以内にテーバイ軍と合流することができた [31] 。
そこからカイロネイアの戦いに至るまでの経緯はほとんど知られていない[32]。いくつかの予備的な小競り合いがあったことは確認でき、ピリッポスはおそらくいずれかの山道からボイオティアへの侵入を試みて撃退されたものと推測されているが、その詳細は残されていない[32]。紀元前 338 年 8 月、ついにマケドニア軍は、フォキスからボイオティアに至る幹線道路を真っ直ぐ行進し、カイロネイアで道を封鎖していた連合軍主力部隊を攻撃した[32]。
交戦戦力カイロネイアの戦いで戦死したと思われるアテナイの歩兵パンカレスの葬式を描いたレリーフ。
シケリアのディオドロスの記録によれば、マケドニア軍はおよそ 30,000 の歩兵と 2,000 の騎兵であったとされ、この数字は現代の歴史家によって一般的に受け入れられている[32][33] 。マケドニア軍は、ピリッポス率いる近衛歩兵部隊(ヒュパスピタイ)と軽装歩兵からなる右翼を前に出した斜線陣を敷き、中央には重装歩兵部隊を斜めに並べ、左翼のヘタイロイとテッサリア騎兵部隊と軽装歩兵部隊はアレクサンドロス(後のアレクサンドロス3世)とパルメニオンら経験豊富な将軍が率いた。
連合軍の大部分はアテナイとテーバイから構成されており、他にアカイア、コリントス、カルキス、エピダウロス、メガラ、トロイゼンからの派遣軍団が含まれていた。