オーロラ
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マカバイ記』二 5章 1,2,3,4節 [24][25]

中国西欧ほどの緯度ではオーロラの活動が活発な時にオーロラの上の部分、赤い部分が見える[26]。このことから中世ヨーロッパではオーロラの赤色から血液を連想し、災害や戦争の前触れ、あるいは神の怒りであると解釈していた[27][28][10]。また中世までのヨーロッパでは、オーロラを「空に剣や長槍が現れ」て動いた・戦ったと表現することが多い。これはオーロラの縦縞が激しく動くさまを表している[25]。ただし、彗星も空に現れる凶兆とされていたため、オーロラなのか彗星なのか判別できない記述もある[29]

古代中国ではオーロラは天に住む赤いに見立てられ[28]、やはり西洋と同様に政治の大変革や不吉なことの前触れであると信じられていた[30]。古代中国には赤い蛇のような体を持ち、体長が千におよぶとされる燭陰という神が信じられており[31]、中国の神話学者・何新は、大地の最北極に住む燭陰はオーロラが神格化されたものではないかと論証している。その一方で中国の考古学者・徐明龍は、燭陰を、中国神話の神である祝融と同一神であるとし、太陽神火神ではないかと述べている[32]。また中国の古文書の中で「天狗」「帰邪」「赤気」「白気」「竜」などと表現されている天文現象の中にも、オーロラのことを指しているのではないかと推測されるものがある[33]
近代ロシア1890年から1907年まで出版されていた百科事典に載っているオーロラの挿絵。

近代以降、両極を探検した人々がオーロラを記録に残し始めた。ジェームズ・クックは、1773年2月の航海日誌に「天空に光が現れた」と残しており、南半球のオーロラを見た最初のヨーロッパ人であると言われている[34]

オーロラを世に広く知らしめ、社会のオーロラへの関心を大きく高めた出来事としては、ジョン・フランクリン隊の遭難が挙げられる[35]。フランクリンは北西航路を発見するために1845年に出港し、その後、行方不明となった。消息の途絶えたカナダ北部へとフランクリン隊を探すために多くの救助隊が向かい、そこで見たオーロラを報告書や回顧録に残したのである[36]

両極を探検した人々もオーロラを手記や記録に残している。フリチョフ・ナンセンの著書や日記にはオーロラを描いた木版画や絵画が掲載されている[37][38]。またロバート・スコットも日記にオーロラの様子を残している[39][40]。折り畳まれ、揺れる光のカーテンが空に立ち上がり、そして広がり、ゆっくり消えて行く。かと思うと、また生き返る。このような美しい現象は、大自然への畏敬の念を持たずに見ることはできない。

オーロラが人の心を動かすのは、なにかとらえ難い、霊妙な生命にあふれたもの、静かな自信に満ちて、それでいて絶えず流れ来るものを暗示することによって、人々の想像力を刺激するからである。 ? ロバート・スコットの日記より[40]
研究史

オーロラの発生原理については、古くから多くの科学者たちが解明に努めてきた[27]。特に18世紀から19世紀にかけてのオーロラ研究は電磁気学の誕生と発展そのものである、と言う研究者もいる[41]
黎明期まるで地面から吹出したように見えるオーロラもある[42]

エドモンド・ハレーは1716年3月にオーロラを観測して論文を発表した。ハレーはオーロラの縞模様が球形磁石の磁力線と一致しているのを認識し、「磁気原子」という仮想の原子が地球内部から吹き出してきて、それが磁力線にそって発光するのではないか、という仮説を立てた[43]。フランスのド・メラン(英語版)はこの説を支持しなかったが、ジョン・ドルトンジャン=バティスト・ビオは支持した。特にビオは、「磁気原子」の噴出は火山の噴火によるものだと主張した[44]

ド・メランは1733年にオーロラに関する世界初の学術書を書いた。その中でド・メランは巻雲を原因とする説を退け、地球外物質を原因とした。黄道光を作る物質が地球の大気圏で発火する、という説を唱えたのである[45]太陽黒点の数とオーロラの発生頻度に相関関係があることを発見したのもド・メランである[45]。また同著の中で、南半球にも北半球とよく似たオーロラが出るのではないかとも述べている[46]

発生頻度の研究も行われた。イライアス・ルーミス(英語版)は1859年の太陽嵐をまとめ、1860年にオーロラの発生頻度分布図を作った[47]。図は約1世紀後の国際地球観測年(1957?1958年)により多くの情報を元に作られた分布図と比べても遜色のないほど正確である[48]。スイスのフリッツはルーミスの図を定量化し、一年でオーロラが発生する日数が同じ地点を線で結び、「アイソカズム」と名付けた[49][注釈 2]
電磁気学の発展カール・ステルマー(英語版)(左)と助手のビルケラント(右)。1910年撮影。

1741年、アンデルス・セルシウスとその助手オロフ・ヒオルターはオーロラが発生すると地球磁場も変動するということを発見した[27][51]。またアレクサンダー・フォン・フンボルトは1845年から1862年にかけて刊行された『コスモス』の1章を割いてオーロラについて述べている[52]。彼はベルリンからアルプスの高山から赤道から極地まで地球磁場を準定量的に測り、ロシア帝国イギリスの王立協会に地磁気観測所を進言して設立させ、地磁気の擾乱が全球的なものであることを突き止めた[52]。そして、世界中の磁場が乱れて高緯度地方に強いオーロラが出たり低緯度地方にオーロラが出たりする現象に対し、フンボルトは「地球磁場のカミナリ」という新しい術語を作った[53][52]。20世紀に開かれた国際会議により、この現象は「磁気嵐(Magnetic storms)」と再命名された[53]

19世紀末になると、X線の発見やその研究、またジョゼフ・ジョン・トムソンによる電子の発見に象徴される、真空管を用いた実験が盛んになっていった[54]。トムソンは自著の中で放電管の光とオーロラの光は同一であろうと述べている[54]ノルウェーの物理学者クリスチャン・ビルケランドは1896年の時点で、太陽から高速で飛んでくる電子が地球の大気に突入して光ったものがオーロラではないかと考えた。


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